旅館篇 第8話

 

「お父さんね、私今でも思い出すと幸せな気持ちになることがあるの。あれは私が65歳を迎えた時、健康診断で乳癌の疑いがあるということで、池袋の癌研の病院で検査して貰った時、手術することになったわよね。そのことをお父さんに話したら、「大丈夫、きっと直る」と言って、私のことを一晩中抱いてくださった。あなたの身体の温もりをあの時ほど感じたことはなかったわ」

「君のことがいとおしい、心底そう思ったんだ。」

「この人生、2人でいろんな思い出をつくってきたわ。辛く、悲しいこともあったけど、あなたと2人で作ってきたのよ。他の誰とでもないわ。これからも素敵な思い出を一緒に作っていきましょうよ。私の素晴らしい、だけど時々ちょっと依怙地になる旦那様」

 雨は上がり、青空が見えてきた。木々の葉がみずみずしく光っている。

「旅館に戻る時間だよ」

「いやよ、まだ戻りたくない」

 

朝食の時間。東條様の奥様のご希望メニューは、牛乳、焼き芋、ゆで卵、ごはん、味

噌汁、青菜の漬物、食後の果物(みかんとぶどう)。香川栄養学園園長香川綾さんの四群点

数法で香川さんが自ら実践している食事で、香川さん自身90歳を過ぎても現役で活躍し

ている。

香川さんは「三食とも大事ですが、栄養学的には朝がいちばん重要です。不足している栄

養分を補充して、身体をリフレッシュさせ、一日のスタートをきる。これが自然の理にか

なっています」と言っている。

東條様の奥様はこれから香川先生の食事法をご主人とご自分の健康のため始めたいと思っ

ていたが、なかなかキッカケが掴めずにいたので、今朝の朝食に期するところがあるよう

だ。「牛乳、焼き芋、ゆで卵が主食なんですよ。ごはん、味噌汁は副食。ちょっと変わって

いるでしょ」

「昨年、私も主人も病気をしましたの。もう少し、2人で人生を、健康に過ごしたいと思い

まして、高齢者の健康法を調べているうちに香川綾先生の料理法に行き着きました」

ご主人は旅館特製の朝食を食べている。グジの焼き物、味噌汁、エイひれ、岩海苔、野

菜物3種。大根の葉とちりめんじゃこのおひたし。レンコンとふきとがんもどきの炊き合

わせ。そして大和芋のすりおろしたもの。最後に野菜ジュース。

お二人は食事をしながら今日の予定の打ち合わせをしている。

午前中は近くの漁村にいくことにした。お昼はそこで浜鍋を頂いて、その後海辺を散歩。

旅館に戻ってきてから、旅館の隣にある陶芸教室で夫婦茶碗をつくり、夕食迄の時間、

ゆっくりと温泉に入る。夕食後、旅館の車で星が丘に向かい、星見物。ここは星がとても

きれいに見える場所とか。

若い時は太陽が昇り、中年期には太陽が頭上の中心に来て、老年期は素晴らしい夕焼け。

太陽が沈み、夜がやってくる。日中は全く見えなかった星星が夜空に一斉に輝く。空一杯の星を眺める。これは高齢者の特権かもしれない。

星見物から戻ったら、マッサージしてもらって、後は部屋でくつろぐ。ケアアテンダント

の坂本さんが、明日の晩はちょっと特別なことがありますよ、と言っていた。「何かしら、

楽しみだわ」奥様は今日の予定を立てられたので、一安心という顔をなさっている。

朝食後、坂本さんが来た。

「坂本さん、2人でこんな計画を立てたのよ。どうかしら。」

「とてもいいですよ~。今日は写真を沢山とりましょうね。お見受けしたところお二人

ともとても元気そうですよ」