屋上菜園物語Ⅱ 第28話「束の間の人生」

西村晴樹は夕暮れの街をいつものように散歩している。夕方の風は気持ちがいい。晴夫にはちょっと変わった習慣があるそれは晴れた日にはできるだけ夕陽を見るということだ。夕方、川辺を散歩している時は、立ち止まって、しばらく夕焼けに染まった空を眺める。自分の身体も夕焼けに染まっていく。それがなんとも言えない。そしてもう一つは外出途中で時間のある時には、駅を降りて30分ほど駅前の街中を散歩する。いつもは電車の窓から見ている風景の中に自分を置いてみる。今日は私鉄のT駅で降りた。郊外の駅で畑もところどころ残っている。初めて降りる駅だ。改札口を抜けると駅前に商店街がある。シャッターを下ろしている店が目立つ。晴樹は商店街を通り抜けて住宅街の中に入っていった。人通りは殆どない。静かな街だ。中規模のマンションが立ち並んでいる。そのような街を歩きながら、晴夫は心のどこかで子供時代の住宅街を探しているような気持ちになる。晴樹の子供時代は住宅街の通路でよく遊んだものだ。高齢になるにつれ、どこかで子供時代のことを思い出すことがなぜか多くなってきている。

最近仕事で行く、墨田区、台東区にはうれしいことに古い町並みが残っているが、人影は殆ど見られない。家々の古い窓も閉じられたままだ。それでも家があるということは人々の暮らしがそこにあるということだ。長い人生を歩んできた高齢者の暮らしに、しばし思いを馳せる。それぞれの人生・・・。そして町並みもどこか老いていることが晴樹の胸を寂しくさせる。

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晴樹は日本の高度成長期に関西の大学を卒業して大手電機会社に就職した。学部は農学部だった。晴樹は大学3年の時、ゼミで研究課題としてフランスの農業思想史に取り組むことになった。ゼミの指導教授H教授はヨーロッパの社会思想史の研究者だった。晴樹はページ数100枚の卒業論文を書き上げた。東ヨーロッパの思想家の著作「歴史と階級意識」についての研究論文だった。「歴史と階級意識」はH教授が翻訳していた。

就職した大手電機会社での配属先は大船の工場。電子計算機の部品を製造していた。工場近くの社宅を毎朝7時半に出て、工場には8時前に入った。当時、日本経済は高度成長期に入っていた。毎晩のように残業があった。工場の社員食堂で夕食を取って社宅に帰るのは毎晩10時過ぎ。社宅では風呂に入り、後は寝るだけだった。仕事で疲れ切っていた。

文字通り、資本主義経済の労働過程の中で毎日を生きていた。

28歳になった時、親の紹介で見合いをし、結婚した。結婚を機に社宅を出て町田市の2階建てアパートに引っ越した。アパートは丘の上にあり、晴樹夫婦の部屋は西側に面した2階だった。丘の下に広がる緑の中に団地が見えた。妻は今迄やっていた仕事は辞めて専業主婦になった。晴樹が帰宅するまで時間を持て余していたことだろう。近所に親しい知人達が徐々に増えていったので、お茶を飲んだり、料理を一緒に作ったりしていた。遅い夕食だった。妻の君江は黙って夕食を食べている夫に声をかけるようにしていた。「今日は忙しかったの?」。晴樹は遅く迄待っていてくれた妻に感謝の気持ちを伝えたいと思っていたが、出てきたのは生返事だった。「忙しかった。今日も見積関係のテレックスが多かった。疲れたから食事の後は、風呂に入って寝る」

晴樹は食事をしながらも今日海外支店に送った見積りにどこか間違いがあったかもしれないと食事をしながら、上の空のところがあった。君江はそんな夫の仕事を引きずる性格が分かっていたので、それ以上、夫に声は聞かずに「お風呂はできているわよ」と伝えた。そんな新婚生活が2年間続いた。

2年後晴樹が池袋の本社勤務に変わったのを機に町田のアパートを出て、埼玉県の川越市の駅から10分ほどのところに土地を買い、そこに家を建てて引っ越すことになった。親から多額の借金をした。それから40年、結局川越に住み続けることとなった。

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晴樹は大手電機会社を辞めて、新聞社に転職した。キッカケは大手百貨店主催の懸賞論文に応募し、優勝はできなかったが、奨励賞を受賞したことだった。タイトルは「これからの消費の特徴」だった。購買層の多様化を予見した論文だった。大手百貨店のオーナーからウチに来ないかと声を掛けられたが、それは断り、新聞社を選んだ。事実と向き合い、自分らしい視点から記事を書きたいという気持ちが強かったからだ。

晴樹は新聞記者としてそれから30年近く仕事をしてきたが、60歳になったのを機にフリーのライターとして活動するようになった。収入は安定していないが、毎月の生活と活動ができるだけの収入は確保できた。

晴樹は学生時代、大学のH教授の紹介で東京の野中一郎と知り合った。野中もH教授が翻訳した「歴史と階級意識」を卒業論文にして取り組んでいた。

学生時代は二人ともアルバイトで稼いで、お互い東京と京都を行き来して、会っていたが、それぞれ就職してからはいつの間にか行き来が長いこと途絶えていた。野中は大学卒業後、鉄鋼関係の商社に就職した。晴樹も一郎も高度成長期の真っただ中で、仕事中心の毎日だった。いつの間にか年賀状のみの関係になっていた。

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野中一郎は15年間務めた鉄鋼商社を辞めて父親の会社を継いだが、結局会社をたたむことになった。自主廃業だった。倒産の恐怖におびえながらの1年半、自主廃業が終了した時、一郎は抜け殻のようになっていた。幸い借金を抱えることはなかったが、毎月の収入はなくなっていた。それでも貯金が少しあったので、妻の幸枝の了解をもらって旅に出るようになった。気分転換を図るためだった。さらに言うなら生きる力を取り戻すためであった。幸枝は抜け殻のような夫が間がさして自殺するかもしれないと思い、夫が旅に出ることには当初は大反対だったが、それぞれの地に友人、知人がいる場所に旅行に行くことは渋々認めた。群馬県みなかみ町、福井県鯖江市、滋賀県近江八幡市、京都府宮津市、島根県川本町、徳島県徳島市。訪問した地では友人、知人と旧交を温めることができた。そして今迄都会暮らしをしてきたが、地方の良さも改めて実感する機会になった。旅行を通して農村地帯の風景に接し、また人々との再会を通じて、一郎は徐々に元気を取り戻していった。それにつけても自分はこれから何をしていったらいいのか、自分の心に問い続ける日々が続いていた。まだ60歳前半、自分がこれから本当にやりたい仕事は何なのか。生涯をかけてできる仕事はあるのか。

野中一郎は1年間の旅を終えた。自分がこれから何をしたらいいのか、いよいよ決めなければならない。自分の中を見ても依然としてガランドウで何もなかった。企業人としてはずっと営業の仕事をしてきたので、仲間と一緒に営業サポート倶楽部をつくって、関わりのある小企業の営業活動を手伝ったりしたが、長続きはしなかった。自分が本当にやりたい仕事ではなかった。自分は一体何をしたらいいのか、自問する日々が続いた。特に大きな病気にならなければあと20年は生きられる。やりがいのある仕事あるいは仕事でなくてもライフワークが見つからなければただ生きているというのは苦痛の日々になる可能性がある。一郎はそれを恐れていた。

一郎は自己肯定感の少ない人生を生きてきた。どこかでいつも自分は失敗しているのではないか、ミスを犯しているのではないかという不安があった。いつの間にかそれが一郎の性格を消極的なものにしたようだ。心配性でもあった。

 

一郎は気分転換のため家の近くの川の土手道を自転車で走ることがよくある。川風が一郎の鬱屈した気分を吹き流してくれるような気がするからだ。今日も家を夕方出て川の土手道を走った。自分の心の中の空虚感を感じながら自転車のペダルを漕いでいた。そんな気持ちでいる時、自分が長く住んでいる街なのに、いまたまたま初めて自分が通りかかったような変な違和感に襲われた。街の光景の中で浮き上がっている自分の姿が見えるかのようだ。どうしても溶け込むことができない。自分が今迄生活してきた地元の街なのに、なぜか親近感が持てない。1時間ほどサイクリングをして、夕焼けを見ながら帰宅した。

 

その晩、夕食後、一郎は改めて自分の人生と向き合う時間をとった。そして自分に向かって、さらには自分をこのように生かしている大いなる存在に向かって、問いかけた。

一郎は自分も大いなる存在に導かれて生きている、生かされているのではないか、といつからか思うようになっていた。

問いかけは呻きのようにも聞こえた。「私の人生の意味は、一体何なのでしょうか。これから10年、20年生きるとしたら何を生き甲斐にして生きていったら良いのでしょうか。教えてください。今のままでは毎日生きるのが辛いのです」。

深夜まで一郎は問いかけ続けた。・・・しかし答えはなかった。夕食後、大いなる存在に問いかける日々が1週間ほど続いた後、夢の中に自分の中のもう一人Yが出てきて言った。

自分Y「大いなる存在は、あなたにあなたの人生の意味について、あなたの生き甲斐について答えることはありません。もし答えたとしてもあなたはそれに満足しないでしょうし、さらに責任を持つこともないでしょう。逆にあなたはあなたの人生からこれからどのように生きていくか、人生から問われている存在なのです。

もう一度言います。あなたはこれからどのように生きていくのか、人生に対して答える立場に立っているのです。それでこそ、あなたはあなたの人生に対して責任を果たすことができるのです。」

一郎「私は自分の人生をこれからどう生きていったら良いのか、分からないのです。ですから大いなる存在に問いかけているのです。」

自分Y「蹲っていないで、立ち上がってあなたの光を放ってください。それがどんなに小さな光でもあなたが放つ尊い光です。あなたはあなたの人生を逆転させてこれから生きていくのです。大いなる存在があなたに与えた人生に、あなたは自分の決意と実際の生き方で答えていかなければならないのです」

一郎「わたしに光があるのでしょうか。私の心の中はがらんどうで暗いのです。人々を照らす光があるとは思えません」

自分Y「あなたが気がつかないだけで、あなたの中には確かに光があります。あなたの光を輝かせるためにあなたは生かされているのですから」

一郎「生かされている・・・。私の光・・・」

 

一郎は夢の中のもう一人の自分が伝えてくれた言葉をしばらく受けとめかねていた。

どこか哲学的な表現で難しいところがある。しかし大いなる存在に対して答えていかなければならない、ということは分かった。自己満足的答えではなく、また世間一般が評価してくれるような生き方ではなく、大いなる存在が「良し」としてくれるような生き方だ。

 

一郎は自問自答の日々を送った。大いなる存在が「良し」としてくれるような生き方とは自分の場合、どんな生き方なのか。

 

そんなある日、妻の幸枝から家の近くの耕作放棄地が市民農園として貸し出されるので、借りて農作業をしてみない、という話があった。一郎はその話に乗った。後から振り返ってみるとそれが大きな転機になった。一郎は日々の日常生活に根を下ろして生きるということが人間にとって重要であることが、少しずつだが分かり始めていた。ある意味では一郎は日常生活という面では根無し草だったのかもしれない。家の仕事は妻に任せきりだった。幸枝は主婦として自分たちの生活をずっと守ってきてくれた。三食の準備をし、洗濯をし、新聞の広告を調べ買い物に出かけ、家の中の掃除をし、食器洗いをし、風呂を沸かし・・・その他にも一郎が気付かない家事もろもろをしている。いずれも生活し、生きていくためには欠かせない事柄だ。一方、一郎は一日の大半を自宅のデスクでパソコンに向かっていた。最近は風呂を洗い沸かすのは自分の役割と考えてやるようになった。

 

家の近くの耕作放棄地は以前は水田だったが、建設残土が盛られて畑になっていた。赤土では野菜は良く育たない。それから3年間腐葉土を入れて土壌改良作業を続けた。元肥の有機質肥料も入れ続けた。土壌改良作業は体力がいるので男性の仕事だ。農作業をするようになってから雨の日は別として、午前中は自宅の書斎で仕事をして、昼食後一休みをしてから、幸枝と一緒に畑に出かけるというパターンが出来上がった。

 

一郎の親しい友人の紹介で地方の若い事業者2人を経営面でサポートする仕事を始めた。A君は住宅販売会社で営業マンの仕事をしていたが、農業への思いが強く30歳になったのを機に農家に転身した。場所は埼玉県北部の町。目指しているのは野菜の有機的栽培だ。会員制の顧客に有機野菜を販売しているが、今のところ年間売上は100万円いくかいかないか。もう一人は山梨県南部で建設資材を販売している家族経営の会社だ。B君は親の後を継いで会社を守っている。これからという若い事業者の仕事をサポートすることが、大いなる存在が「良し」としてくれるような仕事ではないかと思い始めている。。

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新しい年を迎えた。西村晴樹から年賀状が届いた。こう書いてあった。「今年はできれば早いうちに会いたい。」 早速年賀状に記載のあった携帯電話にかけた。

一郎「新年あけましておめでとうございます。俺も西村に久しぶりに会いたいと思っていたところだ」

晴樹「元気そうで良かった。新年おめでとう。それじゃあ、1月中に会わないか。例えば土曜日の夕方とか。一杯やろうよ」

 

1週間後、晴樹と一郎は神田西口の居酒屋で会った。7年振りになる。お互い頭の白髪が増えてきている。

晴樹「元気そうだね」

一郎「ありがとう。今は半農半Xの毎日を過ごしている。午前中は仕事、午後は畑で農作業といった生活パターンさ」

晴樹「どんな仕事をしているの?」

一郎「若い事業者の仕事のサポートをしている。主に経営面のサポートなんだけど、時には人生面の相談にも乗っている。いろいろ悩みがあるからね」

晴樹「野中に合っている仕事なんじゃないか。野中は人の話を良く聴くタイプだから。俺も野中にはいろいろ話を聴いてもらった」

一郎「この歳になって改めて聴くということがどれほど大事か、気がついたんだ。相手の人格を大切にしながら関心を持って相手の話を聴く。言葉でいうと簡単に聞こえるが実際はなかなか難しい」

晴樹「若い事業者ってどんな人たち?」

一郎は現在仕事面でサポートしているA君とB君の仕事とサポート内容について手短かに説明した。そして一郎が自主廃業した父親から継いだ会社で、小企業の社長として過ごした悩み多かった日々のことを話した。

一郎「今でもああすれば良かったと思うことがあるけど、とにかく毎月の支払いをきちんと実行すること、しっかり回収すること、そして不渡りを出さないようにすることに神経の殆どを使っていたように思う。俺は経営者には向いていなかったんだ。心配性の性格が影響したかもしれない。その点、A君もB君もおおらかなタイプなんで自分とは違うが、規模の大小を問わず経営というのは悩みが尽きない。ということで悩みを聴く機会が多いね。」

晴樹「そういう人が傍にいてくれるとA君もB君も安心できるんじゃないかな」

一郎「そうだといいんだけど、どこまで役に立っているかな。ところで西村はフリーライターの仕事を続けているの?」

晴樹「相変わらずやっているよ。フリーライターの仕事の他に最近は本を出そうと思って、その原稿を書いている。テーマは「高齢者が生き甲斐を持って残りの人生を生きるためには何が必要か」だ。日本の社会は高齢期を幸せに、そして充実した人生の完成期にするために何をしたら良いか、ということにあまり関心を持って来なかった。そして今バタバタしている。これは日本人の性格なんだろうな。そろそろ直さなくてはいけないね」」

一郎「俺もそう思うな。本が出たら早速読ませてもらうよ。最近、自然の中で農作業をしていて思うんだが、時々フッと不思議な気持ちになることがある。言葉ではうまく表現できないけど、畑の中で立って大空を見上げていると空の彼方から誰かが自分を見ているような感じがするんだ。段々齢をとってくると今迄無かったような不思議な体験が増えてくるね。それは別にして西村も俺もそろそろ「自分とは一体何か。

自分の人生の意味は何か。そしてこれからやり遂げることは何か。そんなことを考える時期に来ていると思うんだ」

晴樹が改まって、こう言った。

「実は俺、肺がんで余命1年と医者に言われたんだ。原稿を書いている時、タバコを喫いながらが多かった。そのつけが来た。それもあって野中に新年早々会いたいと思ったんだ」  

一郎「あと1年か・・・。それでもうタバコは止めたんだね。あと1年の間に天からの、大いなる存在からの質問に答えていく、ということになるね。その手伝いをするよ。

最近自分は死んでも意識は生き続け、死後の世界で成長し続けていくと思っている。これは俺の勝手な思い込みではなく、ある有名な科学者であり、研究者である人が最先端量子科学の「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」に基づいて提起している考えなんだ」

晴樹「そうだといいね。ということは自分が死んでも俺の意識は野中とずっと一緒、ということなんだ」

一郎「俺は畑で野菜を栽培していて教えられたことがある。野菜は種を播いてから収穫まで3ヶ月か半年だ。短い、束の間の人生だ。それでも変わりやすい気候の中で、病害虫と闘いながら、また人に助けてもらいながら必死に生きて、花を咲かせ、実を稔らせる。そして次の世代のために種を結んでいく。人間の一生も考えてみれば束の間とも言える。この束の間の人生をどのように生きるか・・・畑に来ると野菜たちからそう聞かれているような気がする。そして『野中さんにはきっと「自分とは一体何か。自分の人生の意味は何か。そしてこれからやり遂げることは何か」の答が出せます』と励まされているような気がする。」

 

青空を雲が流れていく。鱗雲というより花びらのような雲だ。屋上菜園ではイチゴの花が風に揺れている。                

(第28話 了)