人「間」と世「間」について

マッサンの戦後のところで、リンゴの歌を久しぶりに聞いて、私の中で突然ナツメロブームが始まり、戦後の歌を聞き続けている。田端義夫、渡辺はま子、藤山一郎の歌をユーチューブで聞きながら不思議な気分に浸っている。何かとても懐かしいような景色なのだ。当時はまだ子供だったので、歌謡曲の歌詞の意味も良く分っていなかったが、街のどこかでラジオから歌謡曲の歌が流れていた。人々が日々を生きるために自分達を力づけ、慰めてくれる娯楽の一つとして歌を聞き、口ずさんでいたような気がする。日々の生活と歌がとても近い時代だったのかもしれない。個人が自分のために、というよりも人々が一つの歌に共感を寄せることによって同じ世界を共有する、といったいわば共同幻想のような雰囲気が生まれていたのかもしれない。私にとって、あの時代が心の故郷なのだと思う。高度経済成長が始まる前、復興期の時代にはまだ「世間」というものがあったのではないか。世間と向き合うのは人間。「間(あいだ)の世界」というものがあった。間の世界では自分よりも相手を優先し、常に相手のことを意識して、相手との関りで行動している人々、つまり人間がいた、それが日本文化の特徴だ、との指摘がある。個人主義的ではなく相互協調的な共同体。しかしそのような共同体が高度経済成長と個人主義、民主主義の価値観の中で次第に消えていってしまったようだ。世間と言う言葉には、世間に迷惑をかけない、世間のもの笑いにならない、という言い回しがあり、なんとなくマイナスのイメージがあるが、やはり日本人には相互協調的な共同体が必要なのだと思う。そのためには新しい世間観づくりが必要ではないだろうか。最近「公共」という言葉を良く耳にする。コミュニティという言葉も多くの人達が普通に使うようになってきている。

私はこれからの日本社会のために、新しいタイプの世間観が生まれてきたら良いのではないかと考えている。人の間、世の間は大事だ。間について考えていきたい。