池波正太郎さんのこと

久しぶりに「鬼平犯科帳の世界」(池波正太郎編)文春文庫の中の「著者インタビュー 書く楽しみと苦しみ」を読んだ。私は時代小説「欅風」を書いていた時、折に触れてこのインタビューの内容を思い出していた。

池波さんが鬼平犯科帳を書いていた時の書き方がとても興味深い。小説は最初の1枚が勝負だと言う。最初に頭に浮かんだ場面をすぐ書いてしまい、そこで書くのをやめて頭のなかでふくらませていく。そして何かの拍子に次の情況がパッと浮かんでくる。そんなふうにして5枚、6枚と書きすすめるうちに、人物の性格が生まれ、動き出す、と。私も時代小説「欅風」を書いていた時に、池波さんには遠く及ばないが似たような経験をした。まず2行でも3行でも書く。全部で80話を書いたが、毎回同じことの繰り返しだった。最初の2行が書けず机の前で唸っていたことがあった。しかし、2,3行が浮かぶとそれがキッカケになって情況が展開し始めた。そしてやっと最後に辿りついた。

池波さんは、直木賞をとってから7年間ほど暇があった時、自分の文章を鍛えていた。日劇レビューを見に行ってその情景を文章で書く。また日比谷公園のベンチに何時間か座って通行人を、時間につれての変化を観察して書くという修業をしていた。それは文章をだんだん思うようにするためだった。この思うように、というところが大事な点だ。

私が現在2本のブログを書いているのは、自分の文章力を鍛えることと自分の文章にとってどのような雰囲気、テーストが合っているのか、それを確かめるという目的があるように感じている。

また小説の題の付け方については「話の底を割ってはいけない」と言う。「題名がちゃんとつけられるようになればその作家も一人前だ」。読者が興味を持って最後迄読むためには確かに大事なことだと思う。

また小説と随筆の違いについては、「小説についてはいろいろな材料をどのようにも料理できるが、随筆は自分の全人格をありのままに出しきって書くものだと思う」と言われる。

随筆がそのようなものであることは同感だ。ビジネスモデル徒然草を書きながらいつもそのことを私も意識している。

池波さんは小説でも芝居でも映画でも、どういうものが土台になって成り立っているかということを考えなければならない。それがドラマツルギーっていうもんでしょう」

何が土台か、何を土台にするか、それが一番モノを書く場合大事なことなのだ。

そして自分が書いた文章を読み返して手を入れることの大切さ。これは私も実感している。

前の晩に書いて翌朝読んでみると直すところが見つかる。寝ている間に何かが浮かんできているのかもしれない。これは文章を書くことだけに留まらないことかもしれない。