賢さと愚かさ
倫理学の世界では「善」と「悪」、「正」と「不正」が伝統的な判断基準となっている。しかしこれを私達の日々の生活更には仕事に適応しようとすると、事はそう簡単ではないことに気付かされる。何が悪で何が善か、その議論をしなければならないが、抽象的な議論では恐らく結論は出ないだろう。小説家の池波正太郎は「人間というものは善いこともするが同時に悪いこともする生き物だ」と言い切っている。人間の心の中に良い思いと悪い思いが同居している、また行動面にもそれが現れてくる。池波正太郎の作品の中で、このような人間像を典型的に表しているのは「藤枝梅安」だろう。このような善悪混在の状態をそのままにしておかないで、善を増し、悪を抑えるというのが宗教的修行なのかもしれない。またそれは尊い倫理的行為でもある。ただそれは100%善を目指すにしても、人間である以上、そこに到達することは不可能だ。旧約聖書の伝道者の書7章にこうある。「あなたは正しすぎてはならない。・・・この地上には、善を行い、罪を犯さない正しい人はひとりもいない」。私が言いたいのは「善」と「悪」、「正」と「不正」には自分の視点、立ち位置という制約があり、主観性、相対性という問題が常に付きまとい、個人の間でも、グループの間でも、国家間でも対立へと発展していく可能性があるということだ。それではこれからの時代どのような判断基準を持ったらよいのだろうか。ある倫理学の専門家は「賢さ」と「愚かさ」をあげている。この指摘を受けて、ここから先は私の考えだが、「善」と「悪」、「正」と「不正」は外に視線が向き、批判的になりがちだが、「賢さ」と「愚かさ」は自分自身に目を向けさせる。私は今日賢い行動をしただろうか、愚かなことをしなかっただろうか。なぜそれが愚かだったのだろうか。もっと賢い行動をとることはできないだろうか。考えることができる。確かに「賢さ」は可能性の大きな言葉であり、「善」と「悪」、「正」と「不正」を包み込む上位概念になるのかもしれない。人との会話でもこの賢さを感じることがある。「この人は賢い人だなあ」と思わせる人がいる。「正しい人・強い人から賢い人・優しい人へ」の時代に入っている。賢さは会社でも国家でも展開可能な判断基準にもなりうるのではないか。それにしても賢さをどのようにして身につけるか、難問は続く。