「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」

新約聖書ルカの福音書16章1節~9節で例え話の後、イエスは弟子達に「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」と言う。この例え話はイエスの語った例え話の中で解釈が最も難しいものと言われている。文面だけみれば、あのイエスがそんなことを言うはずがない、ということになるが、それではどのように解釈したら辻褄が合うのか。さまざまな解釈が可能だろう。この例え話について次のような解説がある。「イエスは<光の子ら>に永遠の未来に備えることを教えようとして、この世での未来に備える人々の知恵について語られたのである」。もしそうなら例え話としては違う内容もありえたのではないだろうか。例えば、友をつくるというなら、日頃から貧しい友を自分の収入の一部を割いて出来る範囲内で金銭的に助ける仕組みを作ったとか。この「不正」という言葉は他の訳(山浦訳)ではずるいこと、なっている。なぜイエスは敢えて「不正」とか「ずるい」という言葉を使ったのであろうか。さて15章の1~2節にパリサイ人、律法学者たちが呟いてこう言った。「この人は、罪人達を受け入れて、食事までいっしょにする」彼らは思ったことだろう。イエスは飛んでもない男だ。律法を犯している、と。イエスは弟子達に「不正」という言葉を敢えて使うことによって「神の国」での価値観を示したのではないか。さらに言えば価値観の転換を。つまりこの世で不正と思われることが「神の国」では正しいことなのだ、と。イエスが罪人達を受け入れているのはパリサイ人、律法学者から見たらまさに不正なことをしているが、神の国に生きる<光の子ら>は罪人達を受け入れ、彼らを救いに導くことによって永遠の住まいに入ることができる、ということを言いたかったのではないだろうか。従い、パリサイ人、律法学者から「不正なことをしている」と言われても、「神の国」では正しいことなのだから恐れてはならない、とイエスは弟子達に語ったのではないだろうか。私は、文章はまず状況的に読むことが大事なことであると思っている。どのような具体的状況で、話し手は誰を対象にして、何を伝えようとしているのか。また聞き手はどのような反応、理解をしているか。その時代の価値観はどのようなものであったのか。現代の価値観との違いは?その上で普遍的なことを抽出する、ということになる。状況的制約、時代性のあるものをそのまま現代に適用しようとすると見当違いが出てくるのではないだろうか。

 

 

3月20日(木)一手間をかける