第7話 メインの仕入れ先への説明

 

 

F部長にK次長が同席。打ち合わせ通りメモに書いた内容を話した。K次長は不快感を顔に出していた。F部長はやはり予想していた通りの言葉を口にした。

「K商事の特約店としてもっと早く相談してほしかった。何かできたかもしれない。いやー残念ですな。ところで今後どうする積もりですか」

上司のT本部長のところに案内され、本部長応接室で報告、説明した。本部長は穏やかに受けとめてくれた。以下箇条書きで。

  • 賢明な判断だと思う。2,3の特約店からも相談を受けている。家賃収入があるが、本業の赤字でそれを食ってしまっている、どうしたらいいか。
  • 大手の業者も大変なことになっている。
  • 建築はここ2年は仕事があるが、その後は奈落。
  • とにかく利幅が小さくなってきている。皆やっていけなくなってきている。
  • ゼネコンの倒産が始まる。債権放棄を受けたところも良くなっていない。

私の方からは「商権をK商事さんと一緒に作ってきたという思いあります。商権を守るためにK商事さんと今後詰めた打ち合わせをさせて頂きたい」と申し出た。これに対し、社内で早速チームをつくり、体制を整える。社長にも報告する、とのことだった。また当方からのお願い事項を伝えた。

  • A銀行が純資産調査書についての検討を始めたところなので、コンタクトするのはちょっと待ってほしい。
  • 9月、10月は手形の決済は手持現金と入手予定の手形を割り引いたりして行えるので問題はない。それ以降は資産売却の代金で決済していく。
  • A銀行の下でD地所が不動産の売却を担当する。契約が出来た時は、担保解除の手続きをお願いしたい
  • 黒字の部門は仙台支店と千葉支店の2つ。人件費を抑えているので何とか黒字になっている
  • リストラして縮小均衡でこの時期を乗り切るという考えもあったが、顧問税理士、顧問弁護士のアドバイス、社内の意見などを考慮し、決断した。
  • 解散の件は銀行関係ではA銀行のみ、取引先ではK商事さんだけ。9月1日現在社員にもまだ話していない。

これを受けてK商事、関連会社は当社に対する契約残、見積中の案件のリストアップに入ることになった。

帰社後、午後1時分。株主の1人の方から電話が入り、「投資額は保証されるのか」との質問。「保証されます」と答える。「それでは委任状を出します」

午後2時に監査役の叔父に電話して解散の件を伝える。実家の母にも叔父さんに電話したことを伝える。母からは「回収面に万全を尽くすように」とのアドバイスがあった。A銀行の京橋支店にK商事との会議内容をFAXで報告した。

こんな状況だが、自分の姿勢が崩れないように、逃げる気持ちを起こさないように、毅然としていること、感謝の気持ちを持ち続けることを自分に強く言い聞かせた。

 

9月3日、日曜日。

実家で兄弟に集まってもらう。長女M子の段取りでM子の夫K氏、次女のS子、

夫のT氏、それに母、解散に到る迄の経緯を報告した。結局3時半に始めて終わったのが9時。K氏より「お兄さんの話を聞いて感じたのは『人がいい。人間は100%利害関係で動いている。人を動かすのはすべてカネ。自主廃業するには厳しさが必要。人に迷惑をかけない、というのはいいことだと思うが、銀行の手にかかるといいようにされてしまう。裏目になる。かえってゴタゴタしてしまう。社員に対しても厳しくやる必要がある。モラルダウンは避けられないので、ルールをしっかりつくり、目標設定を上手にやること。しかしすべては確約しない。また将来に対する希望も必要。こういう時期は権限を集中して、すべて掌握することが肝心』

T氏からは「銀行はシビア。株の担保も取られてしまうだろう。また2枚舌。支店長がOKしても、本店がどういうか。債務超過になる可能性は90%ある。今後銀行からいろいろ厳しい要求を突き付けられることになるだろう」

2人とも「お兄さんは人がいい。甘い」。いずれも貴重な意見と受け止めた。6時間にわたって良く付き合ってくれた。

帰宅後、家内に報告。「人がいい、というのはお父さんの人柄。人にはそれぞれ持ち味があるのよ。ルールをつくったりというのは必要だと思うけど・・・」

「こちらが余り疑い深く出ると相手も好意的に対応しようとしていても態度を変えてしまうんじゃないかな。難しいところなんだけど」と私。

 

9月4日、月曜日。

管理部長と顧問税理士は大阪出張。9時から在庫処分チームと打ち合わせ開始。

私の方より、ライナーとレバーブロックの処分、換金をしっかりやってもらいたい。関係者は皆でやる。これがうまく行かないと厳しいことになる。債務超過もありうる。9月、10月の2ヶ月間が勝負と考える。

11時に顧問弁護士のところに報告に赴く。「K商事はどうでした」「賢明な判断と言ってくれました」。弁護士より次のような指示があった。

  • 清算人は代表(社長)と税理士の2人でいい
  • 営業は残務処理のみ。新規はできない
  • 債権者への案内(銀行から手形決済について確約をとっておくことが必要。

その後で以下コメントがあった。

  • 土地は投機でないからそんなに心配していない。税理士の評価額は控えめ。慎重だ。
  • 銀行へは特別清算の可能性、というようなことは言わないほうがいい。当社は信用と裏付けがある。
  • 中間マージンを取る商売は成り立たない。

 

弁護士の奥さんも「良かった」と言ってくださった。

 

(第7話 了)

 

第6話 自主廃業のための業務開始

メインバンクの担当課長からは御社は他社に比べ資産が多い。解散決断の最大の理由は何ですか、との質問。顧問税理士作成の純資産計算書を提出し、償却できずにいる不良資産、また積みあがった処分の目途の経たない不良在庫について説明した。当社の現在の営業力、商品また高齢化した人材ではこの難局なとても乗り切れない。できることなら皆さんにご迷惑を掛けることのないようにしたい。担当課長からは今月末の資金繰りについては両建てを外して定期預金を充当することを考えましょう、とのことだった。顧問税理士より①資産売却➁社員の問題(任意清算でないと社員の退職金が払えない)と2つが気がかりの点との指摘があり、担当課長からは任意清算の場合、「期限の利益」という条項があるが、「そこまでやるか」ということもあるし、また下位銀行に対してメインの立場、責任もある。B銀行、C銀行には取締役会決議後、早急に説明に行った方がいい。

 

またK商事さんには土地担保解除手続きのために早急に説明しておく必要がある。特に今迄融資の面で協力的だったB銀行さんには早く話した方がいい。A銀行系の不動産会社の担当者には全資産に購入先をあたるように(清算には触れずに)、当支店として連絡する。彼も銀行出身だから良く分かっているでしょう、とのことだった。私の方からは8月30日の臨時拡大取締役会の開催と9月14日の臨時株主総会開催予定について報告した。近くのレストランで、3人でフォロー・ミーティングを持った。A銀行としては前向きな対応をしてくれそうだとの感触を3人とも持つことができた。期限の利益などについて意見交換した後、今後の課題、準備項目について打ち合わせた。

 

29日、千葉支店の件で地元の不動産会社のF社長に電話をかけ、千葉支店の土地と建物の売却を依頼する。あくまでリストラの一環という理由で。またC銀行の関連不動産会社の担当者に来てもらい4つの不動産物件について購入先を当たって欲しい旨頼んだ。リストラの一環という理由で。

 

30日、拡大役員会議を開き、臨時取締役会とした。議題は会社清算の件、債権債務及び純資産の件、今後の対応(営業、回収・支払及び人員体制、在庫処分などのチームの設置)について、とした。また解散を顧問弁護士、顧問税理士と3者会談で決定し、これを受けてA銀行へ報告したこと、またA銀行の反応、銀行への依頼内容について説明した。各人それぞれ発言。会議はスムースに進み、取締役会決議で解散及び臨時株主総会の招集を決定した。顧問弁護士、顧問税理士にも会議に同席して頂いた。

 

夕方千葉支店のI部長、仙台支店のK部長に状況説明。突然聞かされてビックリということだったが、意外にも2人は落ち着いていた。当社の状況だけでなく、土木建材業界の厳しさを2人とも感じているからだろうか。

私の方から、今の仕事を続けるための選択肢として可能性のある3つのケースを話した。

  • 独立して自分の会社をつくる
  • 仕入れ先に移籍する
  • 他の会社に移る

 

2人とも建設資材の業界で育ってきたが、建設資材の業界の先行きについては口を揃えて不安視していた。いわんや当社のような規模、内容ではいくら頑張ってもあと3年ぐらいがいいところではないか。仙台支店は人脈の引継ぎが難しい。また他の会社に移籍しても最初は歓迎されるかもしれないが、1~2年でポイとなるのではないか。2人とも住宅ローンが残っており、退職金をなんとかしてほしい、最後のお願いという言葉も出た。この年代(40代)の再就職を改めて考えなければならない。出費が何かと嵩む年代だ。精算には半年は最低かかるので2人に総務のT部長も加えて、月1回ぐらいのペースで検討会を持つこととした。

 

31日、2千万円の個人資産投入で、今月末の手形決済、支払関係は乗り切れる。まずは一安心。A銀行の京橋支店の当社担当課長にFAXで取締役会の決議を報告。顧問弁士、顧問税理士にもFAX。お二人にはお礼の言葉を伝えた。

A銀行の担当課長に電話を入れた。「支店長に口頭で話した。支援の方向で動いている」との返事だった。

 

A銀行関係の不動産会社の副部長が来社。5階の打ち合わせ室に上がってもらう。副部長からは昨日銀行の担当課長から呼ばれ、京橋支店に行ったとの話があった。(顧問税理士が作った「純資産調査書」に記載されている土地の評価について副部長は見解を伝えた模様。「この販売予定額は妥当か?」という質問だったのだろう。副部長は厳しいコメントをしたのではないか。

 

個々の物件について検討した。順番としては、仕入れ先の担保に入っている大きな3物件の売却の目途を早くつけること。そうすれば、A銀行も融資しやすくなるだろう。

K商事に明日面会したい旨、電話を入れアポを取る。八丁堀区民会館を予約して臨時株主総会の通知を発送した。

 

9月1日K商事のF部長のところに弊社のT取締役と一緒に報告・説明に行く。面会時間は午前9時~10時。待ち合わせ場所の喫茶店で「部長に迷惑が掛からないようにする」ということを確認。一番の問題は「なぜもっと早く相談してくれなかったのか」と言われることだ。

 

ここ1週間ぐらいで決めた。公認会計士、顧問弁護士、顧問税理士、そして社内の意見も聞いて決断した、とそのまま伝えるしかない。怒られたら甘んじて受けることにしよう。

(第6話 了)

第5話 自主廃業への微かな光

 

翌日23日、朝。出勤で家の玄関を出る時、今日から厳しい闘いが始まるなと思わず天を仰いで、ため息をつくともなしについた時、家内から「お父さんだったら出来るわよ。頑張って」「そうはいってもなあ」笑顔で送りだされた。土壇場になると女性は強いなぁ・・・。いつもと同じように家内の見送りを受け、手を振り駅へと向かった。

顧問税理士から評価計算書が出来上がったとの連絡を受け、税理士事務所に向かった。税理士からは以下の説明があった。

「債務超過にはならない、1億円は残る。これなら解散(自主廃業)でいける」とのことだった。目の前がパーツと明るくなった。M公認会計士にも顧問弁護士にも純資産評価の計算を顧問税理士にしていることは説明していなかった。顧問弁護士は私の「弁済できそうもない」という報告に基づき任意整理という方針を出した。顧問税理士と顧問弁護士の間の電話での打ち合わせの結果、「解散」という方針を確認し、軌道修正した。これに伴い2,3の実務的打ち合わせ、特に銀行に対する対応を話し合った。また解散ということになれば債権者集会ではなく、臨時株主総会の開催となる。

顧問税理士が作成した計算書を見直し、またその他の項目についても実態に合わせてプラス、マイナスの修正を施した。その結果をもって、25日(金)10時半から顧問弁護士の事務所で方針決定会議を開くこととした。

私がきちんと説明していなかったために一旦は任意整理、という方針が出た。とんだドタバタとなってしまったが、「一度地獄を見た」という思いがそれからの解散業務の辛さを支えてくれたのも事実だ。「あの時見た地獄を考えれば、こんな辛さはどうってことない」。ただ顧問弁護士の先生にはご迷惑をお掛けしてしまった。

解散ということになれば、8月、9月の手形は予定通り決済しなければならない。銀行は融資を渋っており、8月末で1千万円引き出すのが限界だった。8月末の手形決済資金として、私財を2千万円投入した。9月末ではさらに資金繰りが厳しくなることを予想、3千万円の私財の追加投入を覚悟した。

24日午前、仙台支店長を同行し、当社の大手仕入れ先の仙台支店を訪問、当社の取引方針を改めて説明した。仕入れ先の支店長からは、「特約店に対する見方が厳しくなってきている。ミヨシさんも噂が出ている。危ないと。今後特約店が単独でやっていくのは難しい時代になっていると思います。弊社としてはミヨシさんを東北では大きな特約店として考えていますが、与信面の問題もあり、今後は今迄のようにはいかなくなると思います」とのことだった。

午後東京に戻り、顧問税理士の事務所に行く。不動産の評価額を一部修正して最終的に純資産評価額1億22百万円という数字が固まった。この金額を顧問弁護士に報告した。顧問税理士が打ち合わせの後で「良く決断されましたね。この時点で決断する社長は少ない。あと半年遅かったら大変だったでしょう」と言うのを聞きながら、心の中で解散に向けて頑張ろう、自分にそう言い聞かせた。

25日(金)午前10時半から顧問弁護士の事務所で方針確認会議を開いた。その結果以下のことを決めた。

  • 任意清算、つまり解散とする
  • 翌週月曜日メインバンクのA銀行京橋支店へ、阿部、顧問弁護士、顧問税理士の3人で行く。その時解散を伝える
  • その際手形決済の協力をお願いする
  • 臨時株主総会の時期を決める
  • 社員の退職に伴い職安に相談する

以上のことに伴う今後の作業・課題をリストアップした。経理面では大阪支店、仙台支店、本社の順で帳簿、補助簿のチェックに入る。管理部長と顧問税理士が

出張して作業。営業面では現在の商権をどのように次の受け皿にスムースに移していくか。また精算期間中に発生する営業事務への対応などを顧問税理士と打ち合わせる。全体的な行動スケジュールを作成。4日大阪支店、7日仙台支店。

帰宅後、家内に今日の会議の結果を話した。それから実家に電話を入れ、倒産ではなく解散でいけそうだと伝えた。

前途に希望が出てきたせいか、週末の26日、27日は久しぶりで精神的にゆっくりできた。しかし、本当に解散ができるのか、途中で崩れて特別清算に移行することはないだろうか。そんな不安が繰り返し頭をもたげてきた。とにかく初めてのことでもあり、不安が不安を呼ぶ、という状態だった。

さていよいよ月曜日が来た。A銀行京橋支店で落ち合う。顧問弁護士が先に来ていたので、顧問税理士が来るまで、支店前の路上で立ち話。金曜日に決めた方針(任意清算=解散)を確認。言葉の問題だが、念のため。ちょっと遅れて顧問税理士。顧問税理士にも方針を確認後、銀行に入った。金曜日にアポを取った時は「当社の今後の経営計画について報告・説明をしたい」と伝えていた。担当課長、担当者を前に、私が口火を切った。会社を任意清算する旨伝え、理由を説明した。

2人は暫く呆気に取られていた。解散の理由は、業績不振、将来への見通しが全く立たなくなってきたこと、純資産があるうちに銀行、仕入れ先に迷惑をかけないように全資産を売却していきたい。資金繰りが厳しくなっていること、また社員もこの決定を受け入れてくれるはず(日頃から経営内容を公開しているので)とも伝えた。その上で当方からのお願いを述べた。

  • 資金繰りの面倒をみてほしい
  • 資産売却に時間がかかるので、この点ご了解頂きたい。

解散決断の時期については顧問弁護士より、8月25日であったことを担当課長、担当者に伝えた。社長は全個人資産を提供すると言っている、とも。

                            (第5話 了)

第4話 八起会 野口会長の紹介で公認会計士に会う

 

8月18日午前10時、上野稲荷町の八起会の事務所に野口会長を訪ねた。野口会長の本を読んで、お会いしたいと思いました。挨拶代わりにそんなことを言った記憶がある。野口会長は穏やかな表情で私を迎えてくれた。野口会長から「会社の状況はどんなですか?」と聞かれた。私は会社の概要を手短かに説明した上で、現在の建設不況の中で売上が大きく落ち込み、資金繰りが厳しくなっている。今月末の手形の決済はなんとか乗り切れると思うが、来月以降がどうなるか予断を許さない状況になってきている、と切迫した状況を訴えた。

野口会長からは担保状況について質問があった。当社の持っている不動産6件につき、一つ一つ説明した。「千葉の物件を見直して貰えば、もう少し銀行から融資を受けられるんじゃないですか。一度交渉してみたらどうですか。最近塩釜の業者さんが相談に見えられたので、担保の見直しをアドバイスしたところ、早速帰って調べてもらったところ、まだ担保余力があるということで銀行から融資を受けられたというケースもあります。まだミヨシさんはいい方ですよ。頑張ってください」

 

会長から八起会の会報「心の軌跡―倒産学をめざして」を頂戴した。早速読み始めた。まだいいほうですよ、との言葉で気持ちが幾分スーッと軽くなった。会社に戻り、この話をW顧問にした。顧問は「そうかもしれないけど、やはり状況は厳しいですよ。楽観的に考えない方がいいと思います」とのことだった。

 

野口会長にお会いした後、会報を読み続けた。時間の関係もあり、また初対面で、あれもこれもというのは失礼かと思い、会社の実態を必ずしも正確に、全体的に説明できなかった、というよりしなかった、との反省があった。八起会の顧問公認会計士のM会計士に詳しく会社の内容を説明したい、その上で専門家としての判断を頂きたいと考え、野口会長に電話で相談したところ、早速M会計士より電話を頂いた。このあたりのスピーディなアクションは嬉しかった。人間、追い込まれると一日でも早く結論を出したいと思うものだ。焦っているということなのだろう。

8月22日(火)午前9時半に会社に来て頂くことになった。このM会計士との2時間に及ぶミーティングが会社の進路を決める決定的な分岐点になった。ミーティングには管理部長に同席してもらい、2人で会社の実態を数字を交えて説明した。初対面なので洗いざらい話すのは控えたほうがいい、と考えたが、M会計士はポイントをついた質問をされ、当社の問題点を短時間で浮き彫りにされた。さまざまな可能性も検討してくださった。リストラして会社を小さくしてもジリ貧になるだけで、持たないだろう。会社を引っ張り、雰囲気を変えることのできる優秀な営業マンがいないようだ。年配者は新しいことをやっていると思っているかもしれないが、実際は旧態依然のやり方から出ていないだろう。民事再生法の申請も無理ではないか。できるだけ早く弁護士と相談した方がいい、との結論だった。自主廃業はできないものでしょうか、との当方の恐る恐るの質問に「毎月の手形を落とさなければならないが、そのための現金を確保できるか、また手形の買い戻しをするための資金を準備できるか・・・なかなか難しいと思う」との答えだった。ああ倒産かと思った時、目の前が暗くなった。

 

前の日に開いた新旧役員の合同会議で、大方の意見は会社存続は難しい、清算を視野に入れるべき、今の人材を見ると今後とも続けるのは難しい。泥沼に入らないよう決断してほしい、であった。現在顧問税理士に会社の純資産の計算をお願いしている、それが25日に出てくるので、その数字を見た上でどうするか方針を決めたいと伝えた。8月3日に顧問税理士に純資産評価を依頼していた。自分なりに計算したところ債務超過にはなっていない、まだ1億円以上の純資産があるはずと検討をつけていた。しかし、自信はなかった。問題は資金繰りだ。早速当社の顧問弁護士に連絡をとり、夕方の4時に伺うことにした。

 

午後4時、弁護士事務所で公認会計士との話を報告した。管理部長にも同行して貰った。法的整理をしなければならないことになるので、今後のことをお願いしたい。私から申し出た希望は、中小の取引先を優先してできるだけ弁済率を高まるようにして頂きたい。少しでもご迷惑をかけないようにしたい。そのためにも私財の提供をできるかぎりします、という2点だった。

弁護士からは以下の方針提示があった。

  • 任意整理でいく。理由は完済できそうもない、ということと9月、10月の手形決裁の目途が立たない

➁債権者集会を開催する。そのために債権者一覧表、取引先リストを早急に作成すること

➂自分のための再起・再生プランを立てなさい。再起するんだという気持ちが大事。自分を前向きにすること。

債権者に迷惑がかかるのは本当に申し訳ない、そう言うと思わず涙が溢れてきた。弁護士は「これ以上遅くなったらもっと迷惑をかけることになる。相手のことを考えて決断する。それが勇気というものですよ」。そう励ましてくださった。会社に戻ってから管理部長と一緒に債権者集会の準備に入った。社員に気付かれないように作業を進めなければならない。

疲れて帰宅。家内に「会社整理ということになる。」と伝えた。「借金を抱えたっていいじゃないの。健康でいさえすればなんとかなるんだから」と励まされたがありがたいと思う反面、これからのことを考えると返す言葉がなかった。実家の母にも、電話で報告。申し訳ないことになってしまった。会社整理という法的措置をとることになった。債権者集会を開くことになる旨、伝えた。母からは「やるだけのことはやったのだから、堂々としていなさい。何も恥ずかしいことはないのよ。」母からは叱咤激励の言葉はなかった。

 

夜、枕に顔をうずめて泣いた。そして覚悟が決まった。債権者集会で心からお詫びしよう。怒号も甘んじて受けよう。そう思い切れた時、なんだか気持ちが軽くなった。その晩、本当に久しぶりに熟睡できた。ほぼ1ヶ月ぶりに朝まで良く眠った。

(第4話 了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(コーヒータイム①・ちょっと一休み)

 

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。3話まで書いてきて思うことがあります。今だからこそ言えることなのかもしれません。

まず第一に思うことはあの時の自主廃業がなかったら現在の自分はない、ということです。倒産していたら今住んでいる、家族の思い出が刻まれたわが家を失っていたことでしょう。また借金の返済のために四苦八苦していたと思います。夫婦、兄弟の人間関係にも深い傷が入り、どうしようもない状態が今も尾を引いていたかもしれません。

第二に事業が思うようにいかなくなった時、心掛けて頂きたいことがあります。私の場合、それは3つありました。

1. 自分の直感を大切にする
私が会社の自主廃業を取引銀行に伝えた時、支店長は「まだ大丈夫と思っていました」と言ってくださいました。社交辞令の部分もあったかと思いますが、実際に自主廃業の作業に入って痛感したのは、実際はまさにギリギリのタイミングだったということです。あと1ヶ月決断を伸ばしていたら信用不安が起こり、自主廃業は難しかったと思われます。
他人がまだ大丈夫と言っても、やはり自分の直感を優先すべきでしょう。
これを教訓にして、私は自分の直感を大切にし、早め早めの決断をすることを心掛けるようになりました。

2. 信頼できる専門家に相談する
私にとって大きかったのは会社の顧問弁護士のY先生そして八起会の野口会長と2人の税理士さんでした。
税理士のKさんにはそれ以来20年間、お世話になっています。特にKさんは自主廃業のために多くの専門的対応をして下さいました。Kさんにお会いしたのは顧問弁護士のY先生の紹介でした。

3.自分を勘定に入れない
人間ですから倒産したらどうなるか心配するのは当然ですが、大事なことは
役員、社員、株主のことを優先的に考える、ということです。役員、社員の人達のことが解決した後で自分のことを考える。社員の再就職先を決める、役員、社員の退職金を払うなどしてから自分の身の振り方を考えるという順序が大事です。結局私は社長としての退職金を受け取ることはできませんでしたが(既に資金は無くなっていました)負債、借金を背負うことはありませんでした。

現在の新型コロナウイルス問題で経営が厳しくなっている企業が数多くあることと思いますが、早めに決断して深手を負わないようにして頂きたいと願っています。

 
再起のチャンスは必ずあります !!

倒産ではなく自主廃業の道を是非選んでください。

第3話 眠れない夜

8月、お盆休みの時期、会社をこれからどうするか、必死になって考えていた。

新年度も1/4半期を過ぎ、業績が激しく落ち込んでいた。売上高で計画比70%、粗利益では50%という予想もしていない業績悪化だった。その前の年度、3年連続営業利益の赤字は食い止めようと、役員報酬カット、賃金カット、経費のカット、それに社外分社の経費肩代わりなどを無理は承知で実施。その結果なんとか100万円を超す営業利益をひねり出すことができた。

黒字化を弾みにして業績改善と意気込んでいたのだが、蓋を開けるとそうはいかなかった。営業部門からは「厳しい環境で多くは望めない」という報告が相次いだ。そんな訳で、お盆休みの間に会社の今後を決めなければ、なんとかしなければ、ということで考え込み、眠れない日々となった。

八畳間の真ん中に机を置き、模造紙の上にカードを並べ、自分一人でKJ法で問題点、今後の可能性を検討した。うちわであおぎながら、ため息もつきながら今後の進路を絞り込んでいった。まず第一は現状維持。これはまず無理だ。第二は思い切ったリストラ。赤字部門の本社の土木建材部、大阪支店の閉鎖。仙台支店、千葉支店の存続。4部門から2部門に縮小する。本社は不動産収入の兼業部門だけとする。信用不安が出てくることは避けられない。「ミヨシは大丈夫か?危ないのでは?」

リストラする部門の人員をどうするか、本社の土木建材部を閉めた場合は「土木のミヨシ」という看板を下ろさざるを得なくなる。

第三は不動産管理会社に変える。営業部門はすべて閉鎖する。大幅な人員整理をして、兼業(不動産)収入だけで食べていく。

会社を解散するということはこの時点では考えていなかった。どんな形になってもいいから存続させたいと思っていた。倒産の恐怖がこころの底で広がり始めていた。

日経ベンチャー1998年6月号の倒産特集「勇気ある倒産」の記事を繰り返し読んだ。その中で倒産社長の言葉。「もっと早く倒産する勇気があったらこんなに苦しまずに再建に取り組めたのに」の文字をじっと見つめている自分がいた。自分はまだ経験していないが倒産への恐れがこころに重くのしかかってきた。経営者会報の倒産特集を読んでいたら、倒産者の世話をしている八起会の野口会長の記事が載っていた。藁にすがる気持ちというのだろうか、もう少し詳しく知りたくて、駅の近くの本屋に行って野口会長の本を探したところ1冊あった。「こうして会社は潰れていく」。

買い求めて、家に帰り一挙に読んだ。8月16日のことだった。その時、どういうわけか野口会長にお会いして当社の状況を聞いて頂き、何かアドバイスを受けられればと思い、早速電話をかけた。意外にも野口会長ご本人が電話口に出てこられ、8月18日午前だったら空いているとのことでアポを取らせて頂いた。嬉しかった。後になってみると八起会の野口会長、K公認会計士とお会いできたことがどんなに大きなことだったか。もし、お会いしていなかったら、解散の決断があのタイミングでできたかどうか。独りで悶々としていたら、決断はもっと遅れたにちがいない。またなし崩し的な決断になっていたのではないか、と思う。今考えてみるとゾッとする。それ以前に帝国ニュースにM弁護士が倒産についての講演録を連載で掲載していたので、一度M弁護士に会って実情を説明し、法的アドバイスを頂きたいと考えた。丁度事務所が当社から歩いて5分ぐらいであることも確かめ、電話したところ、女性が電話口に出てきて「弁護士は現在案件を抱えていて忙しくて時間がとれない」との返事だった。「どなたか先生の関係で、倒産に強い弁護士を紹介していただけないでしょうか」と諦めきれずにお願いしたが、女性の答は「そういうことはしていません」。

とりつく島がなかった。

とにかく相談相手が欲しかった。社内で相談できることではなかった。会社の運命を決する決断をする時期はそんなに先の話ではないことは直観的には分かっていた。苦境を切り抜けた社長達の体験談をすがりつくような思いで読んだ。

と同時に会社が破局した時の状況が様々なイメージとなって目の前に浮かぶようになった。何しろ8月に入ってからというもの、熟睡できた日はほとんどなく、慢性的な睡眠不足が続いていた。眠れずに朝を迎えた日も多くあった。正常な判断ができなくなるのでは、そんな心配も追い打ちをかけた。債権者集会で怒号を浴びている自分の姿、家族でどこかの小さなアパートに転がり込んでいく様子、借金を返済するために、なりふり構わず、馬車馬のように働いている自分の惨めな姿。ああ、これで自分の人生は終わってしまうんだ。何のための人生だったんだ。会社経営では苦しいことばかりだったな・・・。睡眠不足が精神的な不安定を生み出していた。暗い顔をしていたことだろう。そんなイメージを振り払うように自分にカツを入れた。

「中小企業といえども仮にも社長なんだから、どんなに辛くても、最善の決断をしよう。そのためには自分は勘定に入れないことにする。先代の社長は、支払いは絶対に延さないを会社の憲法にしていた。判断の基準は取引先、銀行に金銭的な迷惑はかけない、だ。これが社長としてこれから取りうる最低限の責任だろう。しかし、できることなら、会社をどんな形であれ存続させたい。旧役員、また現在の役員の意見も聞いた上で最終的な決断をしよう。」

(第3話 了)

第2話「 業務日誌書き始める」

解散を決める前から、一冊のノートに記録を業務日誌のように書いていた。1ページ目は2000年8月22日。ひどく疲れた時、あるいは混乱して気持ちの整理がつかなかった日もあり、少し抜けている部分もあるが、ほぼ毎日書いた。自分を支え、支え続けるために書いた、と言うのが真実に近いだろう。書くことによって冷静に、客観的になることができた。また自分自身の叱咤激励ためにも。

日々の積み重ねの結果、業務日誌は100ページを数えるまでになった。一つのドラマの終わりから始めに向かって改めて遡っていくと、結末に到るまでなんと様々なことがあったものかと思う。最初からこれほどの作業が、またプレッシャーが有ることが分かっていたら、思わず後ずさりしたかもしれない。とにかく会社を解散させるということは私にとっても初めての経験であり、また解散が途中で崩れ、倒産してしまうのではないかという不安がずっと最後まで消えず、自分との厳しい闘いとなった。解散業務を続けてく中で、いくつかのことに気付いた。当たり前のことも含めて列挙してみたい。

  • 解散を遂行するためにはメインバンクと最大の仕入れ先の支援が鍵を握る。経営内容について日頃から定期的な報告・説明を率直にしておくことの大切さ。
  • 撤退戦を最後までやり抜くためには、最後まで社長(代表清算人)と一緒に業務に誠心誠意携わってくれる数名の社員がいなければならない。辛く、悲しい仕事となるが、私の場合、明るい気持ちと雰囲気を心掛けてくれた社員によってどれだけ励まされたことか。
  • 不動産の売却はタイミングと縁。足元を見られることは避けられないが、弱気にも、またあまり欲張って強気になりすぎてもいけない。最初の段階で来た引き合いの中でできるだけまとめるようにする。一旦波が消えると次の波が来るまで暫く待たなければならない。段々状況が厳しくなる。
  • 在庫は悪である。在庫処分に入った時、二束三文になってしまうことを改めて痛感。貸借対照表では資産となっているが、これは会社の実態、純資産把握上、問題がある。当社の場合は在庫のマイナス面が大きくなっていた。敢えて悪、という次第。
  • 会社は社会的存在であり、公器である。多くの取引先(販売、仕入れ、総務、経理関係)によって成り立っている。特に日頃は余り目立たない取引先が多く在り、お世話になっていることに気付かされる。また当社との取引に大きく依存している取引先もある。
  • 会社を解散しなければならない事態になった原因は社長にある。更に言えば、解散業務の中で「経営とはどうことなのか」「社長として何が欠けていたのか」が少しづつ見えてくる。
  • これから自分はどんな仕事をしたいのか、次の仕事の夢を描くこと。そうすれば目前の苦しさを耐える力が生まれてくる。そんな余裕はなさそうに思えるが、上記⑤⑥との関連で徐々に夢が生まれてくるものだ。

 

これから時系列的に物語を綴っていくことにしたい。事実関係については私の責任で述べられる範囲でできる限り正確に述べていくが。関係者に迷惑がかからぬよう努めていきたいので、場合によっては曖昧な表現になることをあらかじめお断りしておきたい。

このような記録を残す目的はただ一つ。今の時代、生き残りのための競争激化、事業継承問題が深刻になってきている。戦後の経済復興・高度成長期に生まれた中小企業は多くの問題を抱え、また経営基盤が大手に比べて薄い。現在の会社の寿命が尽きかかっていると判断したら、まだ足元の明るい内に会社をたたんで、再出発をはかることを真剣に考えてほしいと思う。会社を失うことは経営者であれば辛く悲しいことだ。だがそれ以上に考えなければならないことは人様にまた社会に迷惑をかけてはならないということではないだろうか。倒産は社会的犯罪だと明言した経営者がいる。一度倒産を経験し、筆舌に尽くしがたい苦しみを、また負い目を経験した経営者だ。人生はやり直しがきく。終わり良ければ全て良し、との格言もある。解散つまり自主廃業できれば取引先、また金融機関に迷惑を掛けなくて済む。他人の目を恐れて、あるいは避けて道を歩くのは本当に辛いことだと思う。決断を早めにすることは、諦めが早いと人からは誹られるかもしれないが、「潔く決断した。後になれば分かることだ」と泰然と受けとめれば良いのではないだろうか。それでは自主廃業物語を始めたい。

(第2話 了)

第1話「自主廃業という選択肢」

 私が会社を自主廃業してから早いもので20年経った。自主廃業が結了したのは2001年1月だった。自主廃業を決断したのは1999年の9月、結了迄の約1年半、倒産の危機を感じながら、崖縁の道を歩み続けた。血圧は上がり、髪の毛も白くなっていった。結了時私は54歳になっていた。会社廃業は人生の廃業ではない、これから自分にふさわしい新しい人生に向かっていくのだ。そう自分を奮い立たせようとしたが、自主廃業のための労苦は予想以上だった。なにか抜け殻のようになっていた。

ずっと昔のことのようでもあり、また当時の記録を読むとまるで昨日のことのように思い出される。失敗と挫折が続いた私の人生の中で、自主廃業は大きな、いや最大の山だった。その山を何とか乗り越えた後の年月は自分が本当にやりたいことを見つけるために、模索の旅だった。まさに試行錯誤の連続だった。まだまだ働かなければならない年齢だった。世間では会社人生の仕上げの時期だ。以前勤めていた会社の同僚が役員になったとの話も聞いた。それに引き換え自分は・・・。

その頃、三条正人と若山あずさが歌った「昭和枯れすすき」を私は何度も何度も聞いた。私は「力の限り生きた」だろうか。「未練などない」だろうか。そうは言えなかった。結局自分は花の咲かない枯れすすきのような人間なのかもしれない。

さしたる固定的収入もなく、6年間は貯金を食いつぶしていた。小さな会社の顧問、セールスレップの仕事、仲間と一緒に始めた営業開発倶楽部。しかしいずれも長続きしなかった。虚しさ、寂しさに襲われる日々が続いた。結局自分が安定した仕事につけなかったのは自分の中に能力がなかったからだ、そう思わずにはいられなかった。

60歳になったのを機に年金の申請をして、年金の受給が受けられるようになった。これで最低限の生活はできる。家内も少しは安心したことだろう。

今回自分の自主廃業物語を書こうと思った理由は、2つある。

  • 新型コロナウイルスのために会社を、あるいは店を閉じようと考えている経営者が多くいるのでないか。できれば倒産する前に会社を自主廃業する方がダメージが少ない。倒産すると自分の家も財産も失うことになる。自分の家があり、健康であればなんとか生きていける。再起の可能性も高くなる。
  • またこれを機会に、仕事=人生、という生き方ではなく、自分の人生をもっと豊かにするための視点を経営者の皆さんに持って頂きたい。仕事で成功しても人生で失敗する人がいる。仕事で失敗しても人生で成功する人がいる。会社勤めの時、マレーシアに駐在した。その時ある会社の経営者から会社は卵を産む鳥で、卵を産まなくなったら処分する、会社はあくまで利益を上げるためのツールだという話を聞いた。

20年経った今、改めて思うことは今私が家族と一緒に暮らし、自分のライフワークに取り組めるのは自主廃業できたからだ。倒産していたらどうなっていたか、それを考えるだけでもゾッとする。日本では倒産した会社経営者への世間の目は厳しい。敗北者、敗残者扱いされる。私は「昭和枯れすすき」を長いこと、倒産者夫婦の歌として聞いていた。

自主廃業は言うまでもなく、自分の力だけでできるものではない。多くの人達の理解と協力があったからこそできたことだ。それらの人々への感謝もこめて、この物語を綴っていくことにしたい。      (第1話 了)