「悲しみ」の精神史

山折哲雄氏の「幸福と成功だけが人生か」―「悲しみ」の精神史を読了した。全21話がそれぞれ心に沁みたが、読後に余韻を引きずっているのは、六 天災は忘れたころにやってくる 八 日本の阿闇世王・北条時頼 十 芭蕉に流れる乞食願望 二十 東京だよ

おっかさん、の4話だ。この本を読みながら感じたことは山折氏の言葉の使い方だ。乾いた言葉ではなく、かといって湿った言葉でもなく、ベクトルを持って対象の核心に迫り、旋回する生理を持った言葉というものがあることを知った。もう一つは「悲しみ」の中にこそ、その人の真実の姿が見えてくるということだ。まだ誰も見たことのない姿が。人はそれぞれ悲しみを抱きしめていきている。その悲しみはその人固有のものであり、共有することができないのだ。そして墓場までその悲しみを持っていくことになる。私にもそのような悲しみがある。抱きしめるとは「どこか懐深く横たわるはげしい愛情を指しているようでもあるが、同時に受け入れ難いものを理非曲直を超えて心中深く受け入れる行為をあらわしているようにも見える」と山折は分析する。私は思う。悲しみを抱きしめるとは後者の受け入れ難いものを受け入れることである、と。受け入れる私の胸は涙と疼きで一杯になるがなるが、それが悲しみを抱き締めるということではないだろうか。