「真実」を巡る断片的想い

 

真実とは一体何か。このような問題を持ち出すのは、最近テレビで事件物、サスペンスを見ている時に、主人公が口にする言葉「私は真実を知りたいのです」が気になっているからだ。真実を知るために主人公は関係者を訪ね歩き、重い口を開かせる。事実は真実への入り口だが、真実ではない。事実と事実をつなげ、関係者の証言を重ねて、事実の背後にある真実に迫ろうとする。最近見たドラマはこうだ。兄を殺した弟が、ドラマの主人公から調査の結果、兄が本当は弟のことを愛していたことを知らされる。弟は兄を勝手な思い込みで誤解していた。誤解が殺人へと向かわせた。兄を殺してしまった弟は取り返しのつかない自分の罪と兄の愛の板ばさみになり、泣き叫ぶ。事実と人間の側のストーリーが一つになって行った時、真実が見えてくる。ドラマは真実がどんなに残酷な意味合いを持とうと人は真実によって救われる、いや真実によってのみ救われる、との確信を持っているようだ。ということで、私は、サスペンスは現代の神学ではないかと最近思っている。もともと「神学とは神のみこころに対する人間の応答の学」(カール・バルト)であるとすると、神不在の現代では、神を真実に置き換え、真実という神に応答する学、と言い換えてみたらどうだろうか。経営の世界でも、ビジネスモデルの世界でも、経営理論という形式知を客観的事実とすると、経営の場で真実に迫るためには人間の側の生きたストーリーが事実に働きかなければならない。ところで経営にとって真実とはどのような意味を持っているのだろうか。真実は経営を救うだろうか?