おカネについての共同幻想

昨日の自給自足のブログの内容の続きになるが、<自ずから足る>とは一見対極的な言葉がある。旧約聖書、箴言30章の次の言葉だ。

「二つのことをあなたにお願いします。

私が死なないうちに、それをかなえてください。

不信実と偽りとを私から遠ざけてください。

貧しさも富も私に与えず、

ただ、私に定められた分の食物で

私を養ってください」

私達は貧しさを恐れる。食べ物に事欠き、生活に必要なもの、欲しいものが買えないような生活は御免蒙りたいと思い、働く。私達は貧しさに本能的不安を持っている。しかしその一方で働いても働いても生活が楽にならないという現実もある。日本は高度経済成長の時代に中間層が分厚く形成され、消費文化を発展させ、同時に社会に安定をもたらす重心のような役割を果たした。しかし、現在はそのような中間層が格差拡大の中で解体されつつある。一言で言えば、おカネ、マネーの時代になっている。おカネを沢山持っていることが成功者であり、また人間的にも優れていると皆が思い始めている。勿論おカネを稼ぐには才覚も必要であり、また努力も求められる。ただおカネの有無で人間の優劣を決め、勝ち組、負け組みと仕分けをするのはどうかな、という思いがある。江戸時代には、今にして思うと優れた価値基準があったように思われる。それは稼ぎと務めという考えだ。しっかり働いて稼ぐことが前提になるが、それだけでも不十分で、町のために、世の中のために奉仕・貢献、つまり公共性のある働きもして初めて、一人前の人間として認められた。よく成功した金持ちのイメージとして上げられるのは、立派なオフイス、積みあがる札束、広大な邸宅、豪華な食事、高価なスポーツカー、そして女優のような美しい妻、あるいは群がる美女たち。以前秒速で1億円稼ぐと喧伝されたY氏は成功者としてまさにそのような演出をしていた。転落した後、Y氏は実態はそんなものではなかったと告白していた。Y氏の場合はあまりにも極端なケースだろうが、金持ちイコール成功者、勝ち組、人間として優秀という、即物的な価値基準、人間観を見直す時期に来ているのではないだろうか。マネー資本主義はアメリカ特有のローカルスタンダードであり、日本には日本のローカルスタンダードがある。いやあるべきだ。なぜならマネー資本主義はいずれ破綻する。リーマンショックのような金融破綻はマネー資本主義にとっては内在的・宿命的なものだからだ。これからも第二、第三のリーマンショックは起こるだろうし、規模は更に大きくなっていくことだろう。その意味では何があってもおかしくはない。私達は世界的規模の経済破綻に抵抗できるような経済生活をそれぞれの立場で組織し直す時に来ているのではないだろうか。そのためには私が考えていることを以下に挙げてみたい。

1.上を見ればキリがないが、自分にとってどの生活レベルがベストなのか、現実的に判断する。ベストの判断基準は、心穏やかで過度のストレスがない、というところだろうか。ストレスで夜も眠れないという世間的には大成功している経営者の話を聞いたことがある。

2.更にそのレベルを生活の質を落とさないでどこまで下げられるか、抵抗線を設定し、そのために何ができるかを考え、準備しておく

3.真面目に働いている人達が報われる社会をつくる。そのためにもマネー資本主義的価値観を変えていく

4.都市部においても農村地帯でも<共助的共同体>を復活させていく

5.成長経済から厚生経済への転換を図っていく