お盆の時・死者との交流

 

お盆は死者が現世の家族の元に一時的に帰ってくる時期と言われている。日本人の死生観の根本にかかわる行事である。子供の頃、夏休みの時期を田舎で過ごした時、丁度お盆に入っていた。夕昏時、鬼ヤンマの通り道で網を構えて待っていたら、いつもは優しいおばあさんから「お盆の時には殺生をしてはいけない」ときつく叱られた。死者は鬼ヤンマの姿をとって帰ってくることもある。おばあさんはそう話してくれた。お盆は日本人の生活習慣に根付いた行事だが、本来の仏教には関係がない行事と聞いたことがある。このような慣習は恐らく、仏教が日本に入ってくる前から、日本人の心に深く根差していたものではないか。日本は世界の中でも天変地変の多い地域で、地震、津波、火山の爆発、地すべり、洪水などで多くの人命が失われてきた。昔の人々には災害の予知は難しかったことだろう。家族が、親しい人々が死の世界に流されていくのを、ただただ受け入れるしかなかったのではないか。そのような現実の中で、昔の人々は考えた。「死者は別の世界に住んでいる。そして一年に一度、私達のところに戻ってくる」と。それは虚構かもしれなかったが、この意識がどんなに昔の人々を慰め、励まし、生きる希望・力を与えたか・・・それは私達の想像をはるかに超えているだろう。「また会える。それを励みに生きていこう」夫や妻や子供を失った人々は自然の中の生きとし生けるものに家族の面影を感じ、語りかけたことだろう。そうして日本人の死生観、自然観が形成されていったのではないだろうか。お盆の時期なので、少し宗教についても触れておきたい。テーマは死後人間はどうなるか。まず仏教の場合。ブッダにおいては「有るとか無いとかいう価値基準では測れない無分別の世界で、再び生まれかわることのない状態。しかし現世において悟ることのできなかったものは輪廻転生する」悟るためには「我有り」の自我意識を消滅させる、つまり自己浄化するために修行、清浄行」の実践、が鍵を握る。(「ブッダの人と思想」中村 元・田辺祥二著 NHKブックス)一方キリスト教では罪を悔い改めて、つまりキリストを救い主、贖い主と信じることによって天国に行くことができる。罪の悔い改めとは神から離れて、神を神としない生き方を180度転換して、神に立ち返り、自分自身が今までの人生で犯してきた罪を告白して、神に清めていただくこと、である。仏教であれ、キリスト教であれ、天国観は私達今地上で生きているものの生き方に反映していくことになる。宗教は別にしてお盆の時期は既に亡くなった人々を想う時として大切にしたい。暑い日々が続く毎日だが、それにめげず、緑陰で夜の風の中で、死者が目の前にいるような思いで語らいの時を持ちたいものだ。私が聞きたいのは先に逝った人達が私達に何を託してくださっているか、だ。一つ一つの私に託された想いを受け取る、そうして私は死者と共に生きていく