イエスの福音・話す神から聞く神へ

イエスの福音を読みながら、最近気付かされたことがある。イエスが何を、どのように語られたのかは、共観福音書を読めば分かる。しかし私はイエスの言葉と言葉の間に貧しい人、病んでいる人、誰からも相手にされない人の傍に居て、人々の話に耳を傾けているイエスの姿が見えるような気がする。彼らは当時、罪人であり、穢れた人であった。人々が敢えて近づかないような社会の底辺にいるような人々のところにイエスは行って、人々の話を聞き続け、その人たちの友となっていった・・・のではないか。そして天のお父様(アッバ=おとうちゃん)が底辺にいる人々を見守り、人生を全うできるように助けてくださる方であることを伝えたのではないだろうか。最近私はイエスは「話す神」だけではなく「聞く神」でもあると感じている。敢えて言うなら「聞く神」だったと。大工として、巡回労働者として貧しく、厳しい生活をしてこられたイエスは共感を持って人々の話に相槌を打たれたのではないか。また話す人々も「この人は自分の話しを心底理解してくださっている」という安心感を持ったことだろう。底辺にいる人々の生活の苦しさ、どうにもならない孤独感・孤立感、将来に対する絶望感、それでも生きていきたいという願いを、包み込むようにしてイエスは聞いていたのではないか。恐らく人々はイエスに話を聞いてもらっているうちに天のお父様が一緒にいてくださる、と言う思いに導かれたのではないかと思う。イエスは聞く神であった、と思っていたところに、NHKの「こころの時代」で筑豊の牧師 犬養光博師の言葉に出会った。犬養師は「伝道のために来たのではない、人々の言葉を聞くためにきた」という野沢伝道師の生き方を語る。野沢伝道師は説教はせず、困難な状態にある人とともにいて、その話に熱心に耳を傾けた、とのことだ。ゴッホは伝道師時代、ベルギーの炭鉱に派遣された時、イエスのように生きようとした。貧しい人々と共に生きたゴッホが伝道地をやむを得ず離れる時、人々は「わしらはこのような友人を二度と持つことはないだろう」と言ってゴッホを見送った。人々はゴッホのことを「友」と呼んだのだ。

友となる、隣人になる。それは犬養師によれば友とされる、隣人としていただける、ということだ。私がなるのではない。それが人間として本当であり、真実なのだと思う。私たちは世俗的な価値観に日々影響を受けている。それは「私が・・・」という自分を主体とする考え方、生き方だ。それによって喜んだり、悲しんだりする。凸凹の感情を経験する。そして本来の価値観に引き戻される。生きるとは本当に深いことなのだと思わざるを得ない。だから祈りとは「聞く神」であるイエスに話すことであると最近の私は思い始めている。祈りの中で相槌を打ちながら、聞いてくださっているイエスがいる。