カトリックの司祭から教えられること

キリスト教には大きく分けてカトリックとプロテスタントの2つの流れがある。ルターの宗教改革からプロテスタントが生まれた。私自身プロテスタントの流れに属する者だが、最近思うことは、プロテスタントはイエスさまの十字架と復活、つまり罪の赦しと永遠の命、三位一体の神としてのイエスさまを信仰表現の基本とする。それはそれで正しいのだが、私は人として私達と同じような人生経験をされたイエス様を深く知ることもまた大事なことではないかと考えている。若い頃信仰生活に行き詰まった時、カトリックの司祭であるヘンリ・ナーウエンの「今ここに生きる」を読んで、疲れて、干からびていた信仰に新しい光が差し込んできたのを感じた。ナーウエンはさまざまな人生の出来事の意味の読み替えを教えてくれた。まるでオセロゲームの黒の駒が白に変わっていくかのようだった。カトリックとプロテスタントとの関係は慎重な考察をしなければならないことであることを十分承知した上で、最近改めて感じているのは、私自身はカトリックから教えられることが少なくないということだ。上記のナーウエンの他、日本ではカルメル会の奥村一郎司祭、井上洋治司祭。奥村司祭の「神とあそぶ」(女子パウロ会)は以前から折りに触れて繰り返し読んでいる。最近読んだ井上司祭の「イエスの福音にたたずむ」(日本キリスト教出版局)を読んで、新約聖書の世界が大きく広がっていくのを感じた。特にヨハネグループのイエス様への信仰告白についての記述は胸を打つ。

「あんな十字架の上で、孤独に中で死んでいった一人の男が言ったことを信じるなんて、お前たち頭がおかしいんじゃないか」と非難され馬鹿にされながら、それでも「決してそうではないんだ。先生の死は、敗北なんかではなくて、まさに栄光の時だったんだ」と言い続ける小さなヨハネ・グループを想像しながら読むと、このヨハネ・グループが言っていることがとてもよく分るような気がするのです。・・・

この記述から私自身死というものに対する理解が大きく変った。私自身、まことに小さいものだが、死は天のお父さん(アッバ=おとうちゃん)に迎えられる栄光の時だ、と思えるようになった。

ナーウエン、奥村一郎、井上洋治各司祭から教えられることは多い。そして深い。