キリスト教の自然観

最近キリスト教の自然観がどのようになっているか、考えている。キリスト教と言えば「救済論」が中心になる。そして自然とは神によって創造された被造物であり、人間は自然の、そこに生きる動植物も含め、管理者という立場に神によって置かれている。正確に言えば神から管理を委託されている受託者だ。しかし人間には自然は対象物として完全には理解できない。旧約聖書のヨブ記で神はヨブにそれを思い知らされる。

それはそれとして、現在の時代の最大の問題は無限と思われた自然が有限であり、人間の経済活動、人口増加などのよって自然が大きな影響を受けていることが、現実的課題として人類に突きつけられたものの、どのようにしてその問題を解決したら良いか、分らずに試行錯誤している、というところにある。従来の哲学、科学、経済活動は、世界の有限性、自然の有限性と自然界と人間界の相互制約的関係に殆ど関心を払ってこなかったと言わなければならないだろう。環境保全意識、生態学的意識が強くなってきた背景には有限性と限界性の認識がある。これは恐らく人類が経験している大きな意識転換ではないか。

今日銀座に出たついでに教文館に寄って、キリスト教の立場で自然のついて論じた本がないかどうか、店員に聞いたが、現在は残念ながら該当するものはないとのことで、最近

ローマ法王が自然について述べたメッセージがあるが、まだ日本語には翻訳されていないとのことで、ドイツ語版の本を見せられた。カトリック側では動きが出てきているようだが、プロテスタント側ではまだその気配もないようだ。

アッシジの聖フランチェスコは太陽を賛歌するような詩を書いたらしい。そういえば、以前「ブラザーサン、シスタームーン」という映画が上映されたことがある。また鳥に向って説教をしたことでも有名だ。

私の個人的な思いだが、キリスト教と自然観というテーマについては誰か日本人の牧師か学者に取り組んでほしいと思う。なぜなら日本人の自然観は優れて宗教的であり、共生的であるからだ。