クリスマスの時期を迎えて・旧約聖書創世期にある原罪

 

旧約聖書の創世記3章でエバとアダムが善悪の知識の木から実をとって食べたことが神に対する罪の始まり、つまり原罪とされている。旧約聖書から新約聖書までの全体を救済史と考えるとすると、原罪について正確に理解していくことが必要だろう。いくつかのなぜがある。例えば、なぜ神は善悪の知識の木を園の中央に生えさせたのか。なぜ人と妻は裸であったのに恥ずかしいとは思わなかったのか。なぜ神は狡猾な蛇を創られたのか、またなぜ蛇が人間の言葉を話したのか。注解書を読むと、それぞれについて説明がある。善悪の知識の木は「服従のテスト」であった。人と妻はまだ子供であった。蛇が言葉を話したのはサタンのなせる業であった、と。さて私が注目するところは、善悪の知識の木の実を食べた後、人であるアダムは自分の裸の姿を神に見られることを恐れて、園の木の間に身を隠した。善悪の知識の木の実を食べた結果は、自分達が裸であることを知ってそれを部分的に隠そうとしたことだった。そこには神の命令に背き、神を裏切ったという反省は見られない。アダムは食べてはならないと神に命じられていた木から実を取って食べたのは神が与えてくださった女が自分に食べさせたのだ、私がみずから進んでしたことではないと、神に抗弁して、エバに責任を転嫁する。エバは蛇が私を惑わした、悪いのは蛇なのだと責任転嫁する。蛇は黙って聞いている。ここで確信犯は蛇であることが分かる。アダムもエバも自分に責任があるとは思っていない。まさに善悪の知識の木の実を食べた効果が現れている。「私には責任がない。間違っていない、このような事態になったのは、神様、あなたのせいだ」とさえアダムは主張している。自分の非を認めないアダムとエバに対し、神はそれぞれ処罰の内容を伝える。もちろん蛇にも。神はアダムとエバに対して、エデンの園から追放し、永遠に生きることのないように人を死すべき存在とされた。

ここで確認しておきたいことはアダムが自ら進んで善悪の知識の木から食べた訳ではないということである。「それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた」。なぜ一緒にいたのにアダムはエバがその実をとるのを止めることができなかったのか。なぜならアダムは直接神から「食べてはならない・・・あなたは必ず死ぬ」と命じられていたのだから。またエバから渡されても食べないでエバに返す、という選択肢もあったのではないか。蛇は主犯で確信犯、エバは共犯、そしてアダムはいわば巻き込まれた形の共犯と考えられないだろうか。神に従わず、蛇、その背後にいるサタンに無自覚に従ったことを神は重大視された。それは結果的には神に対する裏切りであった。人はエデンの園から追放され、神との霊的関係も一度断ち切られたことにより、人は堕落していった。しかし神は人間との霊的関係を完全に断ち切られたのではなかった。ここから神による壮大な救済史が始まる。人が神に立ち返ることができるように、神は預言者をこの世に送り続けられた。