クリスマス・イブに想う

 

今日はクリスマス・イブ。約2000年前、神の子、キリストが生まれた。街ではクリスマス・パーティがあちこちで開かれている。新約聖書、ヨハネの福音書にはこう書かれている。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」神学用語では「受肉」と言われる。さてキリスト教の難しさについて少し触れたい。まず神が人となる、ということだ。キリストは100%神であり、100%人間だ、と福音主義では教えられる。二番目は自分の身代わりになってキリストが死んでくださった、という罪の赦しについての教義だ。私が自分の人生で犯してきた裏切り、不正、犯罪をキリストが全部引き受けて帳消しにしてくださる。それでは自分の人生に対する意味づけとか責任はどうなるのだろうか。また私の周囲の人達はそのようなキリストの身代わりを理解し、受け入れてくれるだろうか。三番目は復活だ。死んだ人が復活する。これは蘇生ではなく、肉を持って復活する。そしてこの3次元、時間を加えれば4次元の世界に出たり入ったりする。四番目は三位一体論だ。神は一人であるが、3つのパーソナリティを持っているという理論だ。最近私は三位一体論は存在概念ではなく、関係概念と考え始めている。更に言うならば関係がそのまま存在である、という考えだ。これは限りなく仏教の縁の考えに近いのかもしれない。最後五番目は永遠とか永遠の命だ。永遠に生きるというのはどんな気持だろうか。永遠に生きる場合の生き甲斐とは何だろうか。限られた人生と命の中で、必死に生きる人間。そのひたむきさを「いとおしく」感じるのは私だけだろうか。おそらくキリスト教は、教義は教義として、限られた地上の人生を全うできるように人々の人生、生活に深く寄り添う、臨床生活的、生活現場的特徴を取り戻し、人々に希望と喜びを与えるという本来のあり方を回復すべき時に来ているのかもしれない。クリスマスツリーがLEDの電球で美しく輝いている。だからこそ、心の中の暗闇を明るくする輝きに私たちは一つ一つスイッチを入れていきたいと思う、クリスマスイブだ。