コミュニティと共同体

 

コミュニティという言葉には何か人を引き付ける響きがある。日本には昔から村落共同体があった。村落と聞くとどうも村八分を思い出す。さてコミュニティと共同体は同じものだろうか。あるいはどこか違うのだろうか。ここから先は私の勝手な仮説となる。コミュニティは天の神に垂直的に向き合っている一人ひとりが互いに生活を支えるために集団を形成しているあり方だ。一方共同体はその土地の風土に根差して、つまり自然あるいは大地に根を下ろして互いに生活を支えるため集団を形成している自己が埋没した集団的意識のあり方だ。コミュニティは移動可能だが、共同体はそこに深く根を下ろし留まり続ける。ユダヤ民族が世界中に散らされ寄留民としてゲットーを作ったのは良く知られている事実だ。「屋根の上のバイオリン弾き」はゲットーを舞台にしている。ゲットーはある種のコミュ二ティだろう。東京は千の村が集まった村の集合体と言う人がいる。しかしこの村には根を下ろす風土が欠けている。勿論徳川幕府が開かれてから300年以上が経っているので、東京に根を下ろして生きている人達もいるだろう。でもやはり東京は風土の無い村のままなのだ。風土の歴史は数千年以上にわたるのだから。風土の無い東京で人々はどこに根を下ろしていったら良いのだろうか。私は日本人の場合、根を下ろしていくのはやはり自然ではないかと思う。千の村の住民がそれぞれの風土に東京にいながら根を下ろしていく方法は無いものだろうか。