シナリオの血肉化

 

俳優の遠藤憲一はある時、一枚の画を見て自分の人生を固めた。迷いの中にある時、原宿の画廊で一本の道を描いた画を見て、また添えて書いてあった詩を読み、覚悟を決めた。

詩の内容はこうだ。「一本の道がある。この道こそ、僕が愛して決めた道だ。この道を歩くとき、僕の顔には希望とほほえみが湧く。僕はこの道から絶対に逃げない」遠藤は売れない時期、脚本を書き続けていた。それも6年間。そして書き続けていた脚本が採用され、テレビドラマ化された。遠藤はいわば性格俳優だが、一方で脚本家でもある。ところで上記の詩では最後に「逃げない」という言葉で締めくくっている。なぜ「僕はこの道を歩き抜く」と言わなかったのだろうか。コンテクストから考えると「逃げない」はちょっと矛盾しているように感じる。しかし、真実はやはり「逃げない」だろう。人は自分が歩いている道が本当の道ではないのではないか、もっと自分に相応しい道があるのではないかと迷う。「自分にはこの道しかないのだ」と思い定めることは「逃げない」ことなのだ。

歩いている最中は、迷いと試行錯誤の連続だろう。他にもっと良い、相応しい、自分に合った道があるのではないかと考える。迷いを断ち切り、この道を歩くと思うことは、一方では「この道しか自分には歩く道はないのだ、自分にはこれしかできないのだ」という積極的な、敢えていうなら「諦観」が必要なのだ。その時に私たちは浮遊している状態から

現実のリアリズムの地平に降りてくることができる。浮遊している状態では歩いているのではなくて泳いでいるのかもしれない。歩くとはどんなことか、遠藤憲一は教えてくれる。

遠藤は言う。「この文字を血肉化していこうと格闘が始まる」私たちは自分のために書かれた脚本を血肉化するためにこの人生という道を歩く。到達点から見れば一本道の道を。