ジプシー・キングの曲を聞きながら

20歳台終りにハンガリーに行った。ブダペストの科学アカデミーの図書館に通い、ドナウ川に架かる勝利橋のたもとのルカーチアルヒーフに通った。晩は居酒屋のようなレストランで食事をした。ハンガリアン・グラーシ(馬肉のシチュー)とかチーズをフライにしたトラピスタなどが想い出に残っている。そしてジプシー音楽。バンドがレストランを回っていて、私が日本人と分かると「さくら」を演奏してくれた。私はジプシー音楽が好きだ。その流離いのイメージの中に滲む哀切さに共感を覚えたためなのかもしれない。若い頃から私は自分のことを「さすらい人」と思ってきた。根を持つことができないで、流れ流れていく人生だと思いこんでいた節がある。どうしてそうなったのだろうか。2つのことがあった。どこにいても「ここは私の本当の居場所ではない、私はまだ本当の自分にはなっていない。」そんな感情を持ち続けていた。その後会社勤めを長くしているうちにそんなことを考える余裕もなくなり、ジプシー音楽からも遠ざかってしまった。そんな自分の心を目覚めさせたのが、鬼平犯科帳のエンディングの曲だった。心が波立つような曲だった。しかしジプシーキングと画面に出てもそれ以上調べるということはなかった。
ところが7月26日、茨木市のIさんのお店に伺った時、店内に鬼平犯科帳のエンディングの曲に似た曲が流れていた。聞くとジプシーキングの曲、とのことだった。Iさんと話をしていても曲が耳について離れない。それにしても聞いているうちに胸をキュンとさせるような曲はそう多くはない。音楽には相性というのもあるかもしれない。私がタンゴに惹かれるのも、ポルトガルのファドに感情移入するのも相性としかいいようがない。そんな時間をもっと多くとりたい。ジプシーキングのCDを買おう。シニア時代は二度と来ない「思秋期」なのだから。