メソッド(方法)とランドネ(遊歩道)

 

鷲田清一氏の「『聴く』ことの力-臨床哲学試論」を読んでいる。全部で八章の構成になっているが、私は鷲田氏が最終的に伝えたいことを早く知りたくて、最後の第八章から読み始め、七章、六章、そして四章へと遡っている。久し振りに読書の楽しさ、ワクワク感を味わっている。と言っても解りやすい本ではない。ある意味で読む自分自身の人間としてのレベルが問われるが、一方レベルを引き上げてもらうための契機が文脈の中に豊かにある。第八章でホスピタリティについて論じた個所に興味深い対比がある。そのまま引用する。「ミッシェル・セールの『五感』という書物のなかに、目的地に向かって最短の道をとる方法-Methodという単語はギリシャ語の「道に沿って」ということばに由来する-に対してランドネ(遊歩道)、つまり散策の道、回遊の道を対置している。方法的な直線の道は、鉄道やハイウエイのような平原を掘り起こし、山や谷を突き抜けて最短距離で進む。・・・これに対してランドネの道は、風景と折りあいをつけながら、ときに風景のその襞の中に紛れ込んだり、社を迂回したり、別の道に通じたりして、うねうね進んでいく。この「長く、曲がりくねった、ぎざぎざした雑多な」ランドネの道で、ひとは寡黙なものにふれる。思いがけないものと遭う。用がないものにも目を向ける。じぶんが方法の道の上にいればぜったいふれられないものに、ふれるのである」。

生活するためには、また仕事をするためにはわたしたちにとって「方法の道」は絶対と言っていいほど、必要である。しかし、人生を真に豊かに生きるために私達は「ランドネの道」を持たなければならないと思う。私の人生を振り返ってみると、方法の道を目指したが、歩き抜くことができず、現実はあちらにぶつかり、こちらにぶつかり、ジグザグと結果的にランドネの道を歩くことになった。「何の意味があるのか」そういう思いがこみ上げてくることがある。しかし、ランドネの道の思想に触れ、何か心落ち着くような気がするのだ。畢竟人生はランドネの道を歩くことなのかもしれない。ランドネの道はタオにも通じていそうだ。