人の立てる音、そして家路物語

 

人間が立てる音から相手の心理状態を察することができる感受性の凄さを感じさせる小説の一部を読み、正直驚かされた。幸田文の「台所の音」(鷲田清一の「聴く」ことの力-臨床哲学試論 P182) 料理屋をいとなむあきと佐吉のやりとりだ。以下引用する。

 

佐吉はしばらく前から病に臥せっており、あきが代わりにやっている。夫の病気はどうも「なおりがたい」ものらしくそれを医師から告げられたあきは、夫にさとられまいと、普段と変り無く静かに、そして気丈にふるまおうとしていた。

「おれはこのあいだから、おまえがちいっと調子がよくないと思っていたんだ。」

「なんのことさ?」

「いえね、台所の音だよ。音がおかしいと思ってた。」

あきはまたひやりとする。

「台所の音がどうかしたの?」

「うむ。おまえはもとから荒い音をたてないくちだったけど、ここへ来てまたぐっと小音になった。小音でもいいんだけど、それが冴えない。いやな音なんだ。水でも包丁でも、なにかこう気病みでもしているような、遠慮っぽい音をさせているんだ。気になってたねぇ。あれじゃ、味も立っちゃいまい、と思ってた」

 

ここから先、私の想像を超える、台所の音からそんなことまで分かるのかという世界に入っていく。僅かな音から人の心の有り様の深いところまで察していく感受性の高さというか、相手のこころに触れていく人間としての能力の高さに感動を禁じえない。

わたし達は現在多くの音に囲まれ、晒されながら生きている。騒音の中で生活し、仕事をしている。大きい音、強い声の中にいて、いつのまにか人が立てるかすかな音、うめきに近い小さな声が聞こえなくなっているのではないだろうか。家の中ではいつもテレビの音と声が聞こえてくる。

昔結婚した頃、東京町田市の玉川学園のアパートに住んでいた。2階建て4室の小さなアパートだった。家内が料理のため台所で立てる音、子供を風呂に入れる音と声が間近かに聞こえていた。日々の営みの音だった。幸田文の短編に触れて思うのは、自分はなんと人が立てる音に無関心に生きてきたのだろう、ということだ。人は言葉だけでコミュ二ケーションをしているわけではない。日本文化には「察し合う」というかけがえの無い特徴がある。言葉は飾ることができるが、音はそのままだ。そんなことを考えながら床についた。暫くすると、家の前の通りを歩く、人の足音が聞こえてきた。足音が段々大きくなり、そして小さくなっていく。既に夜中の12時を過ぎている。その音に耳を澄ませた。駅を降り、家路を辿っている足音に私は何かを聞こうとした。足音が消えた後、私は自分が人生のそれぞれの時期、仕事を終えて駅を降り、家路についた時のさまざまのシーンを思い浮かべていた。どんなに疲れていても、仕事の失敗でガックリ来ているときも、仕事がうまくいって気分のいい時も、絶望の淵で思い詰めていた時も、私には帰ることのできる家があった。家族がいた。家で待っていた家族は、私の足音をどんな思いで聞いていたことだろうか。思い出に耽っているとまた足音が聞こえてきた。小声で歌を歌っている。