個と「ひとり」

 

私たちが使っている言葉の多くは翻訳された言葉だ。この翻訳は欧米文化の導入に伴い、日本の近代的文章の確立とともに明治時代に行なわれたもののようだ。「坂の上の雲」で秋山真之が起草した「聨合艦隊解散の辞」は司馬遼太郎によって近代的文章の確立の一つとして紹介されている。さて今回取り上げたいのは個人(インディビジュアリティ)だ。このテーマについては山折哲雄が「早朝座禅」(祥伝社新書)で取り上げている。山折氏の著作は心がけて読むようにしている。洞察力の溢れた見解にはいつも教えられ、気付かされることが多い。さてこの本の中で欧米的な個と日本的な「ひとり」が比較されている。個は西欧の近代が大変な思想的格闘を通じて「近代的自我」を発見し、「個」の中身を作り上げてきた、と山折氏は指摘する。さてこの近代的自我とは何か。近代的自我はデカルトの「我思う、故に我有り」、つまり内省と理性を特徴にしているが、個とは分割して最終的に残ったものとして「我」に行き着く。山折氏が言う大変な思想的格闘とは恐らくローマカソリックによるキリスト教との長く、厳しい戦いのことを意味しているのだろう。これは日本人にはなかなか分からないことかもしれない。一方日本人の場合は個に相当するものは「ひとり」だと山折氏は指摘する。万葉時代から使われてきた言葉だが万葉の場合は孤独というイメージだが、中世では「ただ親鸞ひとりがためなり」とあるように、悪性を持った自分ひとりのために阿弥陀如来が存在しているという認識に迄親鸞は進んだ。さて以下は私なりの考えだ。親鸞には難信の思想があった。自分を阿弥陀仏の前で理性的に突き詰めた先に、「ひとり」の自覚が生まれたのではないだろうか。西洋の個はデカルト的であり、要素還元的だが、日本の「ひとり」は親鸞的であり、他との没自我的関係を、一旦意思的に断ち切る自立的な生き方と考えてみたい。従い西洋の場合は個と対極の全体性の間で思考が展開され、日本で「ひとり」と対極の関係性、共生の間で思考が営まれる。山折氏の見解に戻るが、山折氏は「群れから離れて『ひとり』の重さに耐えられるだけの強さを身につける」ことを勧めている。翻訳と言えば、西洋の社会に相当する、日本の言葉は何であろうか。世間だろうか。会社に相当する日本の言葉は何か。翻訳と日本古来の言葉を対置して、考える機会を折りに触れて持ちたいと思う。