労働と仕事と管理

私のやっていることは何だろうか、と考えることがある。労働なのだろうか、仕事なのだろうか、管理なのだろうか。またそれぞれどのように違うのか。たまたま本棚から手に取った本「聖書の奇跡物語」山形孝夫著を読みながら考えされられた。山形氏は「農耕民と遊牧民の<労働>観」の中で興味深い指摘をしている。「旧約聖書が重視しているのは労働ではなく、管理、といっても神の委託のもとでの管理です」。罪を犯したアダムは労働に従事する。「労働は罰であり、苦役であるのは不毛な反復行為になりさがる」からであると。

確かに同じことを繰り返すことは無味乾燥感、徒労感を生み出す。シジフォス神話になりかねない。ベルトコンベヤー方式の大量生産はそこで働く人々を生産ラインに縛り付け、働く人々に反復行為を強いているのかもしれない。勿論そのような職場でも創意工夫の余地はあるだろう。労働を仕事に変化させる要素の一つは主体的な創意工夫なのではないか。

日本の製造業の強さはこのあたりにもあると思われる。

ところで以上のような考え方に立ったところ、農作業は労働なのか、あるいは仕事なのか。

ある人が高齢の農業者に質問した。「今まで長く農業を続けることができた理由は何ですか?」答えはこうだった。「面白かったからだよ」

日本の農業が衰退した理由の一つは「農業から面白さを奪ったことにある」という指摘がある。それでは管理とは何か。英語でいうとマネジメントということになる。旧約聖書の創世記では「すべての生き物を支配せよ」と言われている。統制が起点になっているようだ。ところでエデンの園を追放された後、「すべての生き物を支配」する管理業務は誰がやったのだろうか。労働、仕事と比較して「管理」の定義は簡単ではない。

それにしてもと思う。旧新約聖書をバックボーンとした欧米人にとって労働は罪の結果であり、苦役という考え方なのだろうが、東洋人である私は労働は確かに苦役という面を持っているが、一方で救いでもあると思われてならない。