台詞と科白

 

8月18日(日曜日)の日経新聞朝刊の文化欄で別役実が面白い指摘をしている。「台詞は言葉だけのものを言い、科白はそれに仕草の加わったものを言うのである」例えば、として「煙草はせりふを割って吸え」つまり「せりふの途中で、せりふを割って吸え」。「それでね(と煙草を出し)言ってやったんだよ、私は(と一本くわえ)あっちに行けってね(と火をつけ)そいつの目の前(と吸いこみ)でさ・・・。(と吐く)」別役は言う。「こうして出来上がったせりふは一度身体をくぐらせてきたもののように、手触りのあるものに変質している。・・・科白の場合の聞き手は、その動作に自分自身の身体のリズムを同調せざるを得ないから、情報の受信と同時に、それへの共鳴にも思わず誘われることになる。つまり言葉は、発信して受信されるだけではなく、それに加えて共有し共鳴されなければならない、というのが科白の考え方なのである」そして別役は「これは何も舞台の上だけのことではなくて現実社会においても問題になってしかるべきだろう。日常我々の使っている言葉が「台詞」にしか過ぎないとなると、会話から体験感が失われるから、思いが成熟することなく素通りしてしまう」極めて重要な指摘ではないだろうか。例えて言えば、言葉という弁当箱の中に身体性という中身を詰めろ、ということだ。「間」の感覚は言葉をつかの間、経験の海に浸すことなのかもしれない。共有し共鳴というのは共感形成と言ってもいいだろう。それにしてもテレビの中の俳優達はなんと上手にせりふをしゃべることか。名前は失念したが、ある俳優が脚本を貰った後、そのせりふにどのような身体性を加えるか、研究・工夫しているという話を何かの本で読んだことがある。ビジネスの世界はロジカルシンキングが主流だろうが、今後はプレゼンなどで体験感、物語感も必要になってくるだろう。

それにしても、科白を言うためには長年の努力と修練が求められることは舞台の上であろうが、日々の生活であろうが、ビジネスの世界であろうが、変りはないのではないか。試しというか、練習用にひとつせりふをつくってみたカフェで。「ところで(コーヒーカップに砂糖を入れながら)この間の話なんだけど、あれさ(スプーンでコーヒーをかき混ぜて)いろいろ考えて(一口啜り)やっぱりやることにしたんだ、ぼくも歳だから(相手の顔をまっすぐに見てからカップを両手で包むようにして)、でも焦らずにだ(コーヒーカップをもう一度口に持ってきながら)これがぼくの人生最後の仕事だよ(コーヒーカップをゆっくりテーブルに戻す。そして微笑む)。こんな科白を折りに触れて練習してみようか。何かが変わっていくかもしれない、そんな予感がする。