地方の時代が来ている - 時流と波頭

 

テレビで夜「全日本なまりうたコンテスト」をやっていたので、見た。名曲の替え歌を地方の人達がそれぞれの方言で歌っていた。標準語というよそ行きの言葉ではなく、生活感溢れる地元の言葉で歌う嬉しさ、楽しさを出演者は感じていたようだ。それが見ているこちらにも伝わってくる。優勝は「狩人」を歌った熊本県の男性2人だった。鹿児島弁と津軽弁はいわゆる「ナマリ度」が高いのだろう。聞いたことがない言葉があった。

私は方言が好きだ。方言は縄文時代からずっと地方に根付いて使われてきた言葉で、明治維新の後造られた高々150年ぐらいの歴史しか持っていない標準語とは比べ物にはならない。しかし私の子供の頃も、そして今でも都市部では方言は差別されてきた。私自身小さい時、田舎の叔父さんのところに預けられていたので、言葉は栃木弁になり、東京に戻ってきた時、周囲の人達からカラカワレ、嫌な思いをしたことがある。標準語を話そうとしてうまく話せずドモリのようになったことさえあった。それから時代は流れ、大学生の時、銀座の銀巴里に通った。小海智子、丸山明宏などその後有名になった歌手もいたが、その中に津軽出身のシャンソン歌手、工藤勉がいた。津軽弁でシャンソンを歌う工藤の唄が好きで確かレコードを買った記憶がある。その後、井上ひさしの「吉里吉里人」を読み、吉里吉里語を使ったゴンタザエモン沼袋老人の演説にいたく感動した。私自身、その一節を覚えようとした程だった。そしてケセン語の聖書。大船渡のカトリック医師、山浦玄嗣氏の「ガリラヤのイエシュー」。日本全国の方言で翻訳された新約聖書四福音書。山浦氏は序の最後でこう語る。「これから物語るのはこれらの『お助けさま』たちの中にあって特にも風変わりな『お助けさま』、ガリラヤ出身の田舎者、一人の百姓大工の話である」。山浦氏の聖書を読むと、今迄のイエスとは全く違う、活き活きとした、私たちにとって身近なイエスが登場する。私は山浦氏のこの翻訳には「偉業」という言葉しか思い付かない。資本主義の行き詰まりを打開する期待が寄せられている「里山資本主義」、グローバル化が進めば進むほど強まっていくローカル志向。私たちは今そんな時代に生きているのだ。全日本なまりうたコンテストの登場人物の歌声が耳の底でまだ聞こえている。津軽弁で楽しそうに山本リンダの「どうにもとまらない」を歌った若い女性。方言、「地方の時代」の「時流」はどうにも止まらないだろう。その大きな時流の波頭を全日本なまりうたコンテストに見たような想いがする。