埋もれた偉人的普通人

 

歴史学者磯田道史が「無私の日本人」(文芸春秋)で3人の偉人を紹介している。経済では穀田屋十三郎、教育では中根東里、外交では太田垣蓮月。三人は名誉も金銭も求めず、無私に生きたという。かつてはこのような日本人がいたのだ。無私と公は一対のスタンスを持っているのではないか。内山節が指摘しているが、「平凡が一番」と言えた人々がいた。「平凡というのは可もなく不可もなくなることではなく、外からみると地味な世界。だけど、その内部にいると決して地味ではなく、いろんな喜びがあったり楽しみがあったりする」平凡とはどのような生き方だろうか。私なりに一言で言えば、大地に根ざした生き方。日本にはこのような無私の、平凡に生きることを良しとする人々が多くいるのではないか。そのような人々が社会の安定を生み出す重心となっているのではないか。最近のビジネスモデル研究では賢慮とか共通善、の重要性が叫ばれている。そのような賢慮とか共通善を担っているのは無私の、平凡に生きることを良しとする人々ではないだろうか。私もこの歳になって「平凡が一番」の価値が何となく分かるような気がしている。嬉しいことだ。