夕昏の風景

朝霞農園での作業の後、散歩を兼ねていつもと違う帰り道を歩くことにした。畑の近くの公園の水道で手を洗う。ここ朝霞市宮戸は高台にある。歩いていくと眼下に新河岸川が流れ、向こうに大宮のソニックビルなどの高層ビル群が夕昏の中に立っている。はるか彼方には筑波山。ガマガエルの目のように二つの頂きがはっきり見える。夕昏特有のオレンジ色の夕焼け。その上に雲が広がっている。地上と雲と夕焼け。道を歩いていると向こうから買物袋を持った人がやってくる。今晩の夕食のためだろう。新河岸川に架かる橋をランニングで通過していく二人。橋を渡らずに土手を歩く。左側には田植えを終えた水田。畦がきれいに作られている。水田に夕べの雲と夕焼けが映っている。水田が終るところを左に曲がり、ゆるい坂を上っていくと、すぐに市民農園。年配の女性がナスの苗に水をやっている。夕焼けの空が燃え始めている。オレンジ色が赤みを増している。風がとても気持良い。夕方にはこんな優しい風が吹く。今日一日が終りつつある、という感じ。いや家庭の主婦はこれから夕食の準備で忙しくなることだろう。リチャードフォスターの言葉を思い出す。「田舎においては日ごとに時が流れるが、都会においては週単位で時が流れる」

埼玉県に住み、東京に仕事に行く生活をしているが、最近では日ごとに時が流れるという感慨に浸ることが増えてきた。シルクロードのある町では夕方人が橋の上に集まってきて、沈んでいく大きな夕陽をただただ眺めるとのことだ。その気持はよく分かるような気がする。今日を生きた人には今日は夕陽が沈むように過ぎ、終っていく。音もなく燃えている夕焼けを見ながら、なぜか「たかが幸せ、たかが不幸」という言葉が浮かんだ。夕焼けの、それこそありふれた光景。それを見ながら歩いている自分。明日はどうなるか分からないが、今この時を生きている。それだけで充分ではないか。そんな気持にも誘われる。

日中を生、夜を死と考えると夕昏は生と死が触れ合う時かもしれない。私はその時の中を歩いている。「今日を生きよ」「この日を掴め」この2つの言葉は私が若い頃からそのようにできたらどんなにいいか、と願ってきたことだ。夕昏の街を歩きながら、私は短い時間の中を思いがけずさ迷っている。夜が足音もなく近づいてくるのというのに。何も特別なこともないありふれた街の風景、しかしそこには生活についての全てがある。