夢を見た朝
最近よく夢を見る。目を醒ました時に覚えている場合と、もう一つは夢を見たという記憶はあるが内容までは覚えていないという場合がある。覚えていない場合は、それはそれでいいのだが、問題は覚えている場合だ。ひどい夢を見た時はその時の気分を澱のように一日引きずってしまうということも、たまにだがある。夢の前向きの解釈が特にシニアには大切な生活の知恵となっていくのではないか。例えば60歳も後半になると自分が死んだ夢を見ることもある。そのような時は「お迎えが近い」と解釈して落ち込むのではなく、死を意識して今日を元気に生きる、死とは終りではなく、この地上の人生の完成、クライマックスなのだ。その高嶺を仰ぎながら今日の山道を歩んでいる。そのことをもう一度意識させるために、こんな夢を見たのだ、と解釈したらどうだろうか。嬉しい夢、楽しい夢を見た時はそのイメージをそのまま頂く。解釈の必要はない。
旧約聖書の中に「夢の解き明かし」という場面が出てくる。後にエジプトの宰相になったヨセフは獄に囚われていた時、エジプトの王の夢の解き明かしをしたことによって信任を得て、解放され、重職に起用された。それに倣って、勿論興味本位だが、自分が見た夢の解き明かし、正確に言えば解釈を試みたことがあった。若い頃の話だ。このようなブログを書くキッカケは先日見た夢だ。夢の内容はこうだ。どこからか、逃げてきて追っ手を撒き、一人で道を歩いていた時、近くの藪から出てきたマムシに爪先を嚙まれた。友人達が私の声に気付いて集まってきて、私を車に乗せ、近くのマムシの血清のある病院を探してくれる。最初の病院には血清がなく、暫く走った後で見つけた病院には血清があり、「ああ、これで助かった」と思わず胸をなでおろしている私がいた。血清の注射を刺してもらうところで、目が醒めた。
なんだか分からないが、その日は外出した際に交通事故に遭わないように、人混みで人にぶつからないように特に注意して歩いた。