大衆食堂とは

北海道札幌に住む編集者・ライターの北室 かず子さんは昨年末に北海道新聞社から北海道の大衆食堂32店を紹介した「いとしの大衆食堂」を出版した。詳しい内容は日本経済新聞3月5日の朝刊文化欄を見て頂きたいが、私が注目したのは北室さんの考え方だ。北室さんの文をそのまま引用する。「私はどこの食堂の何がおいしいとか、盛りがいいとかといったことにはあまり興味がない。関心があるのは地域との関りだ。『食堂の必然性』と言ってもいい。なぜその食堂はここにあるのか。ここでどんな役割を果たしているのか」

北室さんがこのような視点、切り口を獲得するに到ったのは、結婚して徳島県つるぎ町から札幌にやってきて、北海道のいくつもの大衆食堂で食べ歩き、大衆食堂の豊かな人間関係、また地域産業の歴史に触れたことから来ているのだろう。「大衆」という言葉は最近余り聞かなくなった。個が重んじられる現代では、大衆という言葉は何か画一的で、個性が乏しい、というようなマイナスイメージを持つ向きもあるのではないだろうか。しかし私は北室さんの記事を読みながら、「大衆」という言葉の、いつの間にか忘れていた温かい感触を改めて感じた。大衆という言葉には地域の暮らしとコミュニティが包み込まれている。大衆食堂はいわば、その中で食のコミュニティの役割を果たしているのだろう。カフェとかレストランを開店する際、人通り、またサラリーマンが多いかあるいは若い女性が多いか・・・など客層の分析は勿論必要だが、もう一つ、「自分の店の地域にとっての必然性」も考えることが大切ではないだろうか。ある小さなファーストフード店の前に別のファーストフードの大型店が新規出店する時に、小さなファーストフード店の利用者が大型店に行かずに小さな店を守ったというケースがある。この小さなファーストフード店は地元の人々にとって大切な食を通じたコミュ二ティになっていたのだ。自分の店の顧客をつくる、ということは簡単なことではない。3年、5年、あるいは10年かかるかもしれない。それは体温が感じられるようなコミュニティづくりでもある。北室さんは最後にこう結んでいる。「大衆食堂を通して、誠実な人々が誠実に生きることの素晴らしさを教えてもらった」。私も「いとしの大衆食堂」を取り寄せて是非読んでみたい。