小説家 火坂雅志氏の逝去の報に接して

火坂氏が2月26日急性膵炎のため亡くなった。58歳。火坂氏は昨年10月まで日本経済新聞に徳川家康の苦難の人生を描いた小説「天下 家康伝」を連載していた。私自身、連載中も「また家康か」と思い、敢えて読もうという気にはならなかったが、ある時、なんとなく読んだ255回目から熱心に読むようになった。255回目では家康と明智が人生について話あっていた。少々長くなるが引用したい。

家康は口を開く。

「明智どの。それがしは、人生は失うものと得るものが、最後にはちょうど釣り合うようにできていると考える」

明智光秀が、不思議そうな目をした。

「若いときにどれだけ多くの幸運に恵まれた者でも、晩年にいたってその運が続くとは限らぬ。また苦労つづきの人生でも、老境に差しかかって、突然向こうから運気が押し寄せてくることもある。多くを失っても、腐らず、投げやりにならず、潮がめぐってくるのを待っておれば、いつかは必ず帳尻が合うと、それがしは信じて生きておるのです」

「なるほど、そのような考え方もあるか」

明智は杯を膝元に置いた。

 

家康の言葉が私の胸に響いた。「なるほど、私もそう考えることにしよう」と。しかし、この家康の言葉は、火坂氏の人生から出てきた言葉でもあることを、日本経済新聞の10月20日付けの夕刊に掲載された火坂氏の「小説「天下 家康伝」の連載を終えて」で知った。火坂氏はこのように述懐している。

「家康は若い頃から苦労続きの人生だった。私自身、小説家になってから、けっして順風満帆だったわけではない。30歳のときデビューして会社をやめたものの、まったく鳴かずとばず、50代で「天地人」が大河ドラマになるまで、明日の暮しへの不安ばかりで、底冷えといっていい苦闘の日々を送った」底冷えは経済的なことだけには留まらず、火坂氏の存在自体からも激しく体温を奪うものでもあったのではないか。

 

時代小説を書くものは、その時代のそれぞれの人物を描きながら、同時に自分の心象風景も描いている。さらには現在生きている時代に対してもメッセージを送る。「天地人」、「真田三代」は私達に対してどのようなエールを送っているのだろうか。「天地人」は義と愛を通じて、拝金主義を批判し、民を豊かにすることが国を豊かにすることを伝えようとしたのではないか。そして「真田三代」は?

火坂氏はまだまだ書きたいことが山ほどあったのではないか。残念でならない。