岡野昌雄さんの本「イエスはなぜわがままなのか」を読んで

岡野さんのこの本から私は貴重な示唆を受けた。岡野さんはクリスチャンとして覚悟と勇気を持ってこの本を世に出した。それは以下の文章からはっきりと伝わってくる。

「それを記した人は、確かに何らかの常ならぬ体験をし、それを今私たちに残されているような形で書き残した。そしておそらくその体験は、それ以外に書きようのない出来事だったのでしょう。その意味で、奇跡の記述は「事実」かどうかにかかわらず「真実」だと私は思っています」

「奇跡に限らず聖書に書かれていることは、その証言が指指している先の真実を見せるための表現である。だから指そのものばかりに気をとられず、それがさしている先を見るようにする」

「ここに書かれたことは、自分の人生の終わり方について考えなければならない年齢になって、今さらどうしようもない本音ですから、どのような批判もお受けする覚悟です」

 

キリスト教界にはカソリックとプロテスタントという大きな2つのグループがあり、プロテスタントの中には「福音派」と呼ばれるグループがある。福音派は聖書霊感説に基づき、書かれた内容そのものはすべて正しく、事実であると考える。岡野氏が問題提起しているのは事実を事実として理解し、受け入れるか、あるいは聖書の記述に基づき真実を求めていくか。あなたはクリスチャンとしてどちらの立場に立ちますか、ということでないだろうか。真実を求める場合、なぜかと考える。2つだけ例を挙げたい。

1.天地創造

1週間で神は地球を創造されたが、植物が創造されたのは第3日。太陽と月が創られたのは第4日。この順番でいくと植物は太陽がない状態でどのようにして<光合成>をしたのだろうか。真実は何か?

2.ユダの裏切り

イエスが言っているように逃げも隠れもしない、捕まえようと思えばいつでも捕まえることができた。ユダの裏切りは公衆の面前ではなく、秘かにイエスを捕まえるために役立っただけだった。またイエスは人々の救いのために十字架につくことを父なる神から与えられた自分の使命と考えてさえいた。つまりユダが裏切っていなくとも早晩イエスは十字架に架かっていた。ユダの裏切りとは一体どのような意味があったのか。真実は何か?

ユダの裏切りが後世のユダヤ人迫害、その頂点としてのナチスのユダヤ人皆殺しにつながっていったことを考えると怖ろしくなる。やはり真実を求めなければ!