愛と自由
「夫婦にとって何が一番重要ですか」という質問に対して、ヨーロッパのある女性キリスト教指導者は「自由です」と答えた。「愛です」と答えるかと思っていた質問者は「なぜ自由が愛よりも大事なのですか」と続けて聞いた。西欧は個人主義の世界なので、そうなのかな、と私はインタビュー記事を読んで、一瞬そう思ったが、いやそうではない、日本に住む私たちにとってもそうではないか、と感じた。そこからいつもの私特有の堂々巡りが始まった。悪い癖かもしれない。質問者のなぜ自由なのですか、に対する彼女の答ははっきりとは記憶していないが、結婚の目的が人間的成長にあること、そのためには人格的自由がなくてはならない、と答えていたようだ。
新約聖書をケセン語に翻訳した山浦玄嗣氏は愛という言葉をキリスト教の文脈の中で定義し直している。キリスト教ではギリシャ語のアガパオーを愛すると訳すが、本来の意味は「大切にする」だと山浦さんは言う。山浦さんが引用している「日本国語大辞典」では愛とは好きから生じ、気に入ったものは愛し、気にいらないものは愛さない、自己本位的感情であると説明されている。山浦さんによれば「愛は自己本位的感情なので、愛は上下関係につながりますので、上の者が下の者を愛する、ということになります。つまり対等の相手や、目上の人に愛するとは言えません。下の者が上の人に対していだく好意は「慕う、お慕いする」ということになります。
一方「大切にする」は主君が家臣を大切にする、家臣は主君を大切にする、友達を大切にする、神様を大切にする・・・すべて成り立ちます」(「イエスの言葉 ケセン語訳 文春新書 P115~116」)。これがアガパオーの心だと山浦さんは言う。ただケセン語では「大切にする」とはあまり言わず「大事にする」だ、そうだ。大事にするとは自己本位ではなく、相手本位の行動となる、と。
日本でキリスト教が普及しない原因の一つに翻訳の問題があると私も感じている。山浦さんはご自分でギリシャ語を勉強され、この問題に切り込んだ。ガリラヤ方言の田舎大工で貧しい生活に耐え、肉体労働に耐えた、生活感と現実感覚溢れる言葉をイエスは語ったはずだ、と私などは思うが、聖書の翻訳にはどこか教師然としたところがあり、正直しっくりしないところがある。私の人生の中で山浦さんのケセン語訳の聖書に出会えたことは嬉しい出来事だった。愛から自由へ、私の堂々巡りは続く。