成熟と円熟

野菜を栽培していると収穫のタイミングは完熟だ。自分で栽培し、自分で食べるから完熟迄待つことができる。一般に商品として農家が出荷する場合は収穫時に完熟状態だと、流通の段階で腐り始めるので、完熟の野菜、果物は出荷できない。やや未熟の段階で収穫し、出荷する、ということになる。太陽の光を十分に浴びて完熟になった野菜、果物が美味しいのは言うまでもないが、やはりそれは自分で育てないとなかなか味わえないものだ。さて完熟という言葉は野菜、果物で使うのが相応しいが、人間に使うとするとどうだろうか。完熟の男性、完熟の女性・・・どこか違和感がある。人間の場合は成熟とか円熟だろう。

曽野綾子さんの近著「人間にとって成熟とは何か」が多くの人に読まれているようだ。曽野さんは成熟していない人とはどんな人か、成熟している人とはどんな人か具体的に述べている。一つ一つ思い当ることが多いが、その中で私が特に面白いなと思ったのは、人生の雑音から超然としている人は成熟していない人で、川の流れに立つ杭のような人は成熟している人、というところだった。ところで人が成熟するためには何が必要なのだろうか。私はそれは経験に対する姿勢ではないかと漠然とではあるが、そう考えている。そして円熟。円熟は特に芸の世界で言われることが多い。成熟の頂点として円熟があるのだろう。そして円熟の先にあるのは「枯れた」芸なのだろうか。