成熟の象徴としての赦し

 

昨日NHKのクローズアップ現代でつい先日亡くなった南アフリカのネルソン・マンデラ氏を取り上げていた。白人10%、黒人90%という人種構成で、かつては悪名高いアパルトヘイトが行なわれていた。マンデラ氏は投獄された後、南アフリカの英語をマスターし、白人の看守と言葉を交わす内に抑圧している側の白人も憎しみの檻から解放されなければならないと気付き、釈放後は白人と黒人の融和、和解を訴え、大統領になった。マンデラ氏の「虹の国」はまだまだ途上で、南アフリカ社会は圧倒的な数の貧困層を抱え、経済格差など大きな問題を抱えているが、マンデラ氏に育てられた世代が「虹の国」を前進させようと懸命に取り組んでいる。「あれほどの苦しみを受けた人が和解というのだから私たちもそうしよう」と思わせる力がマンデラ氏の生き方の中にあった。言葉だけで和解を唱えたのではなかった。私たちも自分達の生活、仕事の関係、また地域社会との付き合い、また国と国との付き合いの中で「赦しと和解」を真剣に考えていかなければならないだろう。争いと戦いは本当の意味で未来につながる解決を生み出すことがないと肝に銘じたい。

そして「赦しと和解」は人間の場合でも、社会の場合でも、国家間の場合でもその成熟度をはかるメルクマール(目印)になるのではないかと思わされている。南アフリカの場合、一定の条件を満たせば報復しない、ということで人種差別の実態、真実を明らかにした。

一定の条件を設定するためには知恵も求められる。互いに譲歩する度量も必要だろう。私たちの場合でも相手の存在を認めて、相手の人格を尊重しつつ、赦し赦される関係を築いていく場面は少なくないはずだ。そこでこそ、人として一番大切な「成熟した心」が養われていくのではないだろうか。