文体について・藤沢周平
今日は文体について、そして文章の質について、考えさせられた。台東区役所の屋上緑化モデルガーデンでの雪を取り除く作業の後、近くの喫茶店に寄った。ここは昭和風の雰囲気の店で、室内には本が積んである。今日はその中の一冊を手に取り、拾い読みした。高橋敏夫氏の藤沢周平について書かれた新書版だ。まえがきにこう書いてあった。「人が孤独を感じるとき、あるいは悲しみや苦しみに耐えきれぬ思いでいるとき、人に寄りそう」それが藤沢の文章の質であると高橋氏は言う。そしてまた「苦しみと悲しみに閉ざされ鬱屈したこころのすぐそばで、同じ感情にひたされた言葉がにぶく暗いかがやきを放っている」と。文章が私の傍らに寄り添って立っている、そして私の鬱屈したこころも仄かに照らし出し、悲しみ、苦しみに穏やかな気持で、しかし、目をそらさないで向き合うという覚悟を優しく後押しする。確かに私達は希望の光、それは多分明るく強い光を求めるが、本当に私達の心の深いところ迄届く光は仄かで暗い光なのかもしれない。強い光はまぶし過ぎる。情緒の細かい陰影を消してしまう。藤沢周平の文章を読むと、自分の文章の稚拙さを感じずにはいられない。現在私が書いている時代小説は、いわば自分の経験、思いのコラージュ的物語の寄せ集めだと思う。しかし自分の生きた証としてどうしても書いておかなければと思い、今迄書きついできた。恐らく小説と言うレベルには届かないだろう、そう思い自信を失いつつも、「ここまで来たんだ。最後迄書くんだよ」と声をかけてくれるもう一人の自分に励まされて、やっと気を取り直したところだ。