本気で取り組む・自分が一番やりたかったこと

 

友人のシニア仲間と話す時、これからの残された人生をどう生きるか、という話題が

縦糸のように出てくる。私の友人のN氏は以前、目が覚めるような話をしてくれた。その中でとても印象的だったのは「年金を貰ってもそれを生活費と趣味などでただ費やすのではなく、年金は国から貰っている給料と考える。つまり本当の意味でシビル・サーバントとして、できる範囲でいいので、世の中が良くなるように働くことが大事だ」という言葉だった。敗戦後の日本、高度成長期の日本、バブル期の日本、宴の後の日本、グローバル化の荒波が押し寄せる明治維新期のような日本。そのような時代を働き、生きてきた私達シニアがこれからどのように生きるか、どう生きていったら良いのか、それは心の底にある共通した思いだ。私は最近改めて思うことがある。今までの人生は、求めているものを獲得するため、自分ができることを拡げていく人生だったような気がするが、これからの人生はその逆になるかもしれない、と。自分の人生の仕上げ、最終章をどのように書き上げていくか。その場合、私は2つのことが大切ではないか、と考え、自分なりに実行している。

まず、本気になる、ということだ。私が折に触れて読む坂村眞民詩集に、このような詩がある。「 本気  本気になると世界が変わってくる 自分が変ってくる・・・ああ 人間一度 こいつをつかまんことには」。もう一つ。これは私の人生経験から出てきた言葉だ。「私はこれこれができる、から、私にはこれしかできない。だからこれに打ち込む」本気になるためには、早く、私には「これしかできない」を見つけることが大事ではないかと思う。「あれもこれもやりたい。またその気になればできそうだ」では、結局なかなか本気にはなれない。人生の経験、挫折は結局自分の人生を見守っている神という存在がいるなら、その人にしかできない、またその人が「私にはこれしかできない」という領域にその人を導くためのものなのかもしれない。私にはこれしかできないを本気になってやり続ける、これがシニアに与えられた特権のような気がする。しかし、本気と言ってもなにも難しい顔をして取り組みことはない。ワクワクしながら、楽しみながらやればいい。「お楽しみはこれから」なのだから。