江戸時代 仙台吉岡宿と駿河吉原宿

 

3月の日本型ビジネスモデル事例研究セミナーで仙台吉岡宿の逆転の発想(仙台藩から金を取られるのではなく、お金を貸し付けて金(利息)とる)について解説・分析を行なった。吉岡宿も吉原宿も人馬を交代して運ぶ伝馬役の宿で、大変な負担を強いられる。東海道・吉原宿の研究をされている渡辺誠氏が日本経済新聞5月3日の「文化」欄に書いた内容によると石高が小さく101石だったそうだ。各宿場には一定の人馬を常備することが課せられた。助郷村と呼ばれる近隣の村との間で負担割合が定められていたが、度々紛争が生じていた。仙台吉岡宿については磯田道史氏の「無私の日本人」(穀田十三郎)に詳しい記述があるが、財政状況は吉原宿よりも格段に厳しかった。吉岡宿は仙台藩重臣俣木家の領地ということで仙台藩の伝馬御合力という助成制度が及ばず、穀田十三郎は、「この町はたちの悪い仕掛けに、はまっている。このままでは吉岡は亡ぶ。なんとかできぬか」を五間堀用水の流れのはたを歩きながら思案していた。ここから菅原屋篤平治と2人で、当時の時代としてはまさに画期的な仕組を考え、実行に移していく。その結果、吉岡宿は千両(現在の貨幣価値で約1億円)を仙台藩に貸付、毎年1割の利息を受け取り、財政難から免れた。この仕組の最大の特長は「金を取られる側から金を取る側にまわる」だった。利息は明治維新迄払われつづけたという。この仕組のお陰で吉岡宿は滅びることなく、今日迄続いている。まさに絶体絶命からの、命がけの、逆転のビジネスモデルだった。