江戸時代の村請制と庄屋制

 

先週磯田道史さんの「無私の日本人」を買って読んでいるところだ。3人の人物が小説構成で書かれている。最初の小説の中で磯田氏は江戸時代、藩は民政に深入りせず、村請制(年貢徴収)と庄屋制(領民自治)というたった2つの制度で農村を治めていた、と説明している。これには目からウロコが落ちる思いであった。つまり領民に大きな自治が認められていた、ということでもある。一方領民が集まり「党」をつくることは厳しく禁じていた。このような状況では領民の頭である庄屋の役割は極めて大きなものがあっただろう。庄屋にも2段階あり、庄屋とその上の大庄屋。藩の役人は武士階級であり、武力の専門家ではあったが、経済、政治には疎かったというのが大幅自治の理由と考えられている。藩は領地で揉め事が起こらず、規定の年貢を毎年徴収できればそれで良い、それ以外の賦役は大庄屋を通じて領民に押し付けて自分達は責任を持たない、と考えていたのだろう。大庄屋は大変な責任を持たされたものだ。相当の人物でなければこの役目はこなしきれなかったに違いない。代官、郡奉行はまさにただ乗っかっているような存在で、実質的には大庄屋、庄屋が任された領地を治めていたと言っても過言ではない。仙台藩吉岡宿の穀田屋と菅原屋は吉岡宿の住民救済のために全く当時としては途方もない発想をし、そのビジネスモデルを実現した。それは今迄取られる一方だった住民が志を一つにして、今度は藩から逆に金をとろうというものだった。文字通り命がけのビジネスモデルだった。江戸時代、藩の数は約300に上った。300の藩の石高を調べてみると1~2万石の小藩が少なからずある。藩は十割自治の原則と幕府への軍役、労役負担で厳しい財政状況の中にあったことが窺われる。庄屋、大庄屋の苦労はどれほどのものであったことか。