演繹的と帰納的

モノの考え方には大きく分けて演繹的と帰納的があると言われている。私自身若い頃は理論から現実に迫る、という思考傾向が強かった。マルクス主義、キリスト教の理論を学び、それを現実、社会に適用しようとした。社会に出て、サラリーマン生活の後、中小企業の経営者になってからは経営理論を学び、それを自分の会社、仕事の現場に適用しようとした。自分の性癖としてどうも理論に惹かれるところがある。しかしさまざまな失敗、挫折を経験する中で、方向転換を迫られた。「オマエは現実をどの程度知っているのか、本当のことが分かっているのか」と自問自答せざるを得なかった。自問はしたが、なかなか自答すると言うところまでは行かなかった。自分はなんて頭でっかちなんだろう・・・。このままではいけない。生々しい現実から、日々の生活から、生身の人間から出発しなければ、と思った。しかし演繹的発想をする習慣、後遺症からは簡単には脱することは出来なかった。ジグザグの道だったように今振り返って思う。それでもいつからか、「自分なり」という限定はつくが現実から、生活から、人間から物事を考えることが無理に意識しなくても、自然に出来るようになった。対象とのやや無味乾燥な関係から、対象との有機的な関係を持つことに喜びさえ感じられるようになった。そして自分なりに生きることの実感というものを手に入れることもできたように感じている。特に今自分は老年期にいるが、この実感を大切にしたい。そして今、改めて演繹的発想の価値も新しい視点から見え初めている。恐らく人生は演繹的、帰納的をそれぞれ半分のサイクルとすれば、この2つを結合した一つのサイクルを完成させるとことにあるのではないか。生きる喜び、真実・真理に触れる喜び。これは人間にだけ与えられている特権かもしれない。