物語と歌手
最近ちあきなおみの「名月赤城山」を聞いて深い感動に包まれた。私は子供の頃、直立不動で、ほぼ無表情で歌う東海林太郎をテレビで何度か見たことがある。その時は年齢的なこともあり、聞いて感動したという記憶はない。歌詞が良く理解できないということもあっただろう。ちあきなおみの「名月赤城山」を聞いた後、東海林太郎の「名月赤城山」を聞いた。聞き比べた。演歌、歌謡曲にはその時代の感情、あるいはエートスが色濃く反映している。東海林太郎の歌はその文脈の中で聞くと、やはり納得できるものがあるが、ちあきなおみの「名月赤城山」は歌の主人公の内面心理を、時代性と切り離して歌っているように思われる。歌手は歌詞の意味するところを深く理解し、理解に基づいた物語を紡ぎだし、そこに自分の思いを込めているのではないか。しかしそれは感情移入ではない。聞くものが感情移入できる世界を創り出す。このような世界を数分間で実現する。ちあきなおみは歌が飛びぬけてうまい。目の前で「命枯れても」を歌っているちあきなおみに森進一が拍手を送っていた。「このような歌い方があるのか」森進一自身が一番驚いたのではないか。ちあきなおみは歌がうまい。しかしそれ以上にスゴイのは歌詞の理解力の深さでは
ないだろうか。歌の主人公とその魂を捉える感性と知性が抜群に優れている。
「名月赤城山」を聞きながら、私はちあきなおみの物語の世界で、しばし日常生活の中の<異界>にいる。
たかが演歌、しかしされど演歌だ。歌手が創り出す物語の世界を私はこれからも大事にしていきたい。