現代詩との出会い・戦後の感性の王国

私が日本の現代詩と出合ったのは大学3年の時だった。最初に読んだのが現代詩文庫の「山本太太郎詩集」で、今、本棚から取り出して、ページを繰ってみると、線を引いた個所、自分の感想を書き付けた個所が多い。恐らく難しい詩句を理解しようと苦闘しつつ、丹念に読んでいたのだろう。その中で「賛美歌」という詩がある。

 

ぼく きとく

魔術師 めざめよ

 

マーガレットが また ひとつ枯れる日

金魚の死ぬや 美しく

 

返 待つ

君が愛を語れ

 

を懐かしく思い出した。当時の私も同じような感覚を持っていた。ぼく きとく。しかし私の場合は単純素朴幼稚な感覚だった。今改めて粟津 則雄の「山本太郎―問いの構造―」を読むとそれが歴然と分かる。粟津によれば山本の問いの構造は存在の深海に迄到達しようかという深く、暗いものだ。20歳過ぎの者に分かる境地ではない。よっぽど早熟であれば別だが。今の年齢になってやっと分かる部分がある。それではなぜ当時、私は山本太郎の詩に惹かれたのだろうか。それは今考えてみると「単独者の存在感」だったように思う。私もあの時期、単独者として生きようと思っていた。そして存在感の危機にも直面していた。

山本太郎の他に谷川雁、村上昭夫、岩田宏、黒田三郎、吉本隆明、吉野弘、吉岡実、茨木のり子、石原吉郎、白石かずこ、金井直、高野喜久雄、三木卓、会田綱雄などの詩を読んだ。いつか若い時に読んだ詩集をじっくりともう一度読んでみたい。夜風の冷涼さに触れながら、詩の世界の深さに今度こそ触れてみたいと思わされたことだ。