生き物としての東京・宮台氏の見解に寄せて

 

先週、11月7日(木)の東京新聞夕刊の文化欄に宮台真司氏の「新国立競技場建設問題に思う 生き物としての東京を取り戻す」。宮台氏も指摘している「日本人に縁の薄い環境倫理学」の用語が次々と出てくるので、今一良く理解できていないが、キャリコットの「生き物としての場所の歴史を参照せよ」は直感的に分かるような気がする。ベアード・キャリコットによれば「生き物としての自然と人の尊厳は結びついている」が、「尊厳を支える気付きにくい条件」があるとのことだ。このあたりから少し分からなくなる。なぜ気付きにくいのか。気付きにくくするための何か障害がある、ということだろうか。宮台氏は「尊厳を支える気付きにくい条件」への理解と「生き物としての場所性」への理解は表裏一体で、双方を理解した人は、その場所の価値を総合的に評価し、ニーズを取り下げる。その事例が代官山の「七曲がりの巨木」だ。街づくりに熱心な人々が切り倒しを求める住民に「代官山が一つの生き物で、その生き物にとって巨木が不可欠」と説いた結果、住民達のニーズは取り下げられた。ところで「場所は生き物」という考えはどこから出てくるのであろうか。場所というのは物理的な場所である(つまり土地)という部分と土地を覆っている関係性とその総体という部分との2つから成立っている、と考えると、私などは理解しやすい。そうすると巨木は物理的な土地に根を下ろす一方で、関係性というもう一つの層に根を張っている、ということになる。宮台氏は双方の理解のためには「熟議」を通じて民主主義の本質を実践すべきだと説く。つまり<参加>と<包摂>。宮台氏はオリンピックを奇貨とし、東京という生き物としての場所を、東京都民という「我々」を回復しようと呼びかける。それは要するに失われている「東京を取り戻す」ことなのだ、と。してみると環境倫理学と都市再生とは密接に結びついているということでもある。いやそればかりでもないだろう。空間経済学、環境倫理学・・・。私の学生時代には聞いたこともなかった学問が生まれている。