生物学の時代と屋上菜園
飛岡健氏は「生物から学ぶビジネス発想法」(1992年)の中で、ポスト情報化は“生物学”の世紀であり、21世紀の国家創造に自然児教育を提唱している。それは21世紀はバイオテクノロジーを含めた“生物学”の世紀との認識から出てきている。まさに慧眼だ。飛岡氏は子育ての相談を受けると「生物の好きな子供を育てなさい!きっと21世紀に活躍しますよ!」と答えているそうだ。「生物学者をたくさん作り出すには、どうしても幼少の頃から子供たちを自然の中で生物と親しませることである」全く同感だ。
屋上菜園で、子供たちと一緒に野菜を育て、ミミズを見たり、カタツムリに触ったりしながら、子供たちと話す。子供たちは好奇心で輝いている。ダンゴムシは子供たちにとって人気者だ。さて「自然の叡智」という言葉がある。2005年に愛知県で開催された「愛・地球博」はテーマを自然の叡智とした。自然の素晴らしい仕組み、自然の摂理を尊重し、これと調和した21世紀の地球と人類の未来を開くことを主眼にした博覧会だった。私はこの博覧会に2回出掛けた。しかし、私は自然の叡智を感じるよりも、「豊かな自然環境の中で開催された現代科学技術展」という印象を持った。その象徴がロボット展だった。確かロボットは100体近くあったのではないか。と同時に「自然の叡智」とは一体何なのか。バイオラングでもなければ、凍結したマンモスでもないだろう。この「自然の叡智」という言葉は宗教学者の中沢新一氏が提案したもののようだ。当初の構想「技術・文化・交流 新しい地球創造」から会場予定地での自然保護運動の盛り上がりあり、突然「自然の叡智」に転換したと言われている。ここで考えたいのは自然に叡智があるのか、ということだ。軽率に結論めいたことを言うのは控えたいが、私は「自然の叡智」よりも「生物の生存戦略」と言って貰った方が得心しやすい。糖の世界でブドウ糖が40億年をかけて圧倒的支配を占めるに到った経緯、また樹木とは全く異なる成長過程と生存戦略で生き延びてきた竹。
生物は苛酷な淘汰圧の下で生き延びてきた。地球上の植物、動物、要するに生物から学ぶことは多い。いや限りなくあることだろう。最近、野菜の中に含まれているフィトケミカルの抗酸化作用に注目が集まっている。アンチエイジング効果だ。フィトケミカルはもともと野菜が自分の身を虫とか病気から守るために体内で合成したものと言われている。生物の生存のメカニズムを知り、それを人類の幸福と未来のために役立てること、それが人間に与えられた叡智ではないだろうか。生き残りのための激しい生存競争は自己の種を、その種だけを守るためのあり方だ。ということは人間の叡智は人間という種を守ることだけではなく、地球上の生きとし生けるものとの共存・共生のあり方に向かうものでなければならない。私にはそこに環境問題の本質があるように思えてならない。私の好きな宮沢賢治は既にこのことに気付いていた。人間の叡智がそこでこそ発揮されなければならないと思う。叡智には神から与えられた責任があるのだから。
屋上菜園でミミズを子供たちと一緒に見ながら、秘かに思うことがある。「この子供たちの中で一人でも生物に関心を持ち続け、日本の未来のために、さらには人類の幸福のために将来生物の研究に進んで活躍してくれたら」と。屋上菜園は都会に住む子供たちにとって植物と小動物に触れることができる、またと無いワンダーランド、ネイチャーランド。そして未来に続く道なのだ。