生産と消費・つながりと自由
今回は2つの観点から私達人間のこれからの生き方を考えてみたい。手がかりは以前日本経済新聞夕刊に掲載された評論家渡辺京二氏のインタビュー記事と三浦展氏の「第四の消費」(朝日新書)の二つ。
「逝きし世の面影」著者、渡辺京二氏は言う。「産業社会を批判した哲学者のイワン・イリイチは『ヴァナキュラー』という概念を重要視している。自然と交わり、地域的で集団的な生活を織り成すなかで、自分の生産・消費活動を自由の証として感じ取れるような人間の生き方だ」。私が注目するのは、自分の生産・消費活動を自由の証として感じ取れる、その自由の中身だ。まず生産活動の自由。都会に住む人間にとって「家」は最早生産の場所ではない。イワン・イリイチ的に言えば、専業主婦のシャドウ・ワークがあるが、女性は生産活動から切り離され、「主婦」として「家庭」という場所に封じ込められた、ということになる。ここで私は思うのだが、人間という存在は、消費だけでは生きていくことのできない存在ではないか、ということである。消費の世界で人間ができることと言えば、結局は与えられたものの中から選ぶ、という受身の行為だけである。最近では消費者が積極的にメーカーの商品に対し、改善案を提案するようなケースも出てきている。(ブランドのあるべき姿を顧客と共有・共創するーソーシアル時代のブランドコミュ二ティ戦略 小西圭介)生産者がつくった商品を<半商品>と考え、消費者の本当のニーズに迄持っていくため、消費者が完全商品化のプロセスに関与するケースも出てきている。(宮城県鳴子温泉郷・ゆきむすび)。デジタル・ソ-シャル化がこれに拍車をかけている。ということで私は高度情報化社会とは、消費者が生産活動の場に戻ってくる復権の手段を与える社会ではないかと考えている。
イリイチはヴァナキュラーな仕事は「支払のない労働」ではあるが、「人間生活の自立と自存」であると言う。言い換えれば資本主義社会の商品世界、市場とは無関係に存在する生活を意味する。具体的な例を上げれば、英国のレジデント運動は原油価格の高騰、市場変動に左右されない生活を実現するための地域生産活動である。また私達市民農園で野菜をほぼ自給自足で作っているものにとっては、市場で野菜が品不足、価格高騰しても、全くと言っていいほど影響はない。勿論、そのためには春夏秋冬、畑で生産活動に従事することが求められる。しかし、商品化されないものをつくる、というのは爽やかな自由の感覚を与えてくれる。
もう一つは消費社会を研究している、三浦 展氏の近著「第四の消費」の以下の個所、
<第三の消費社会の矛盾と、第四の消費社会に向けての五つの変化>
1.個人志向から社会志向へ、利己主義から利他主義へ
2.私有主義からシェア志向へ
3.ブランド志向からシンプル・カジュアル志向へ
4.欧米志向、都会志向、自分らしさから日本志向、地方志向(集中から分散へ)
5.「物からサービスへ」の本格化、あるいは人の重視へ
三浦氏は第三の消費社会の矛盾を、人々を分断、孤立化させる個性化と過剰な物質主義に見ている。私が注目するのは「孤立化」の意味だ。また人々は実際に孤立化をどのように受け止め、何をキッカケに打開していこうとしているか、だ。戦後日本人は古い共同体の在り方から脱し、やっと個人の世界、自由な世界の住人になることができたが、激しい競争、日々の生活の不安定感に晒されるようになった。三浦氏はこの本のサブタイトルを「つながりを生み出す社会へ」としている。つながりの中にあっても人間としての自由は欲しい。その意味では旧来の村落共同体に代わる人間的自由が担保できる都市型共同体を都市住民が求めているように思えてならない。私が都心で屋上菜園の活動を続けているのは、屋上菜園の野菜づくりが取り持つ縁、つまり「菜縁」を通じて都市型コミュニティをつくるためだ。野菜が間に入ることによって、人間関係の境界線に幅ができるように感じている。確かに野菜は人間関係に程良い距離と楽しみを与えてくれる。この自由感が大切ではないかと思う。
生産・消費と人間関係の中で<自由>を回復すること、これが私達の新しい生き方ではないだろうか。