神父井上洋治のこと

以前NHKのこころの時代で井上洋治神父のことを知った。びっくりしたのは天の父なる神を「南無アッバ」と呼ぶことだった。何か惹かれるものがあり、神保町の古本屋で井上神父の本を求めた。何冊かあったが、その中で「イエスの福音にたたずむ」(日本キリスト教団出版局)を購入し、早速読んだ。私自身キリスト教関係の本は今迄かなり読んできたが、井上神父の本を読み、「このような読み方もあったのか」目から鱗が落ちるような思いを再三経験した。それは聖書の言葉の奥にあるイエスの心、神の心に触れるような、私自身の心が震えるような経験だった。特に心に刻んだには次の言葉だった。

「死というものは、人生の最後を結ぶ最も大切な時であり、御父に迎えられる栄光の時だ、と思います。・・・私たち一人一人の人生の営みの中で、死は完成の時であり、同時に栄光の時なのだ・・・」

そして3月5日の日本経済新聞の「らいふ」の欄で、批評家の若松 英輔氏が「師について」との文を載せている。若松氏は井上神父のことを「師」と呼んでいる。

「世に言う師とは、人はどう生きるかを教えてくれる存在かもしれないが、私の師は違った。彼が教えてくれたのは、生きるとは何かということだった。人生の道をどう歩くかではなく、歩くとはどういう営みであるかを教えてくれた」

若松氏が師から教えられたことは、生きてみること、歩いてみることだった。

それにしても「師」を持つことのできる人生は幸せだ。私は多くの友人に恵まれたが、およそ「師」と呼べる方にはお会い出来なかった。正確には私自身、師を持てるような人間にはなれなかったと言うべきだろう。その理由は私自身、今になってみると分るような気がする。取り返しがつかないような残念な気持ちだ。