私が一番きれいだった時

茨木のり子さんの詩集の中に確か、そのような題の詩があったと記憶している。女性には「きれい」というのはキーワードなのだろう。女性は化粧をして、鏡で自分の顔を見ている。その時その時で、鏡で見るポイントが違うのかもしれないが絶えず自分の顔をチェックしている。ということは一日に何度も自分と向き合っている、ということになる。男性でも身だしなみに気をつけることは大切なことだが、女性ほど鏡を見る、ということはない。今回「きれい」ということについて考えたのは、北千住ルミネの屋上で5月24日、25日に開催されるイベントのタイトルが「キレイプロジェクト」となっていたためだ。街をキレイ!カラダをキレイ!ショップでキレイ!いろいろなキレイ、新しいキレイ。

あまり言葉の表現にこだわるのもどうかとは思うが、キレイと美しいはどこか違うように感じる。これは私個人の感覚だが、キレイには汚れがない、乱れていない、整っているというようなイメージがある。一方美しいには文字通り「美」を感じさせるものがある。人に例えれば綺麗な人と美しい人。キレイな部屋と美しい部屋。キレイな所作と美しい所作。

ところで茨木のり子さんはなぜ「私が一番美しかった時」と言わなかったのだろうか。私なりに思うのは、美しいにはどこか比較という視点があるが、キレイにはそのこと自体の頂点・完成を目指すと言う、比較の世界とは違う視点があるからではないか。人に例えれば個性の輝き、その人独自の他にないその時々の表情、表現。茨木さんは、私は私が一番綺麗だった時を知っている、人はそれに気が付かなかったかもしれないが、二度と戻ることができないあの時のあの自分を抱きしめて「とてもきれいよ」と言ってあげたい・・・ということかもしれない。残念なことには自分が本当にキレイだったことに、あの時の自分は気がついていなかった。

蛇足ながら北千住ルミネのイベントの中、街をキレイで、街をキレイにする活動をして屋上に戻ってきたお客様のボランティアに屋上菜園でイチゴ狩り、ミントの初摘みを楽しんで頂く。それが私の担当だ。どちらもオーガニックのイチゴ、ミントだ。今年はイチゴもミントも豊作。一番きれいなままで皆さんを待っている。