翻訳の問題

翻訳の難しさについてある翻訳者が3,4日前に日本経済新聞の朝刊にエッセイを載せていたが、確かに翻訳という作業は大変だろうと想像がつく。若い頃、私も人並みにマルクス、エンゲルス、さらにはヘーゲルとかサルトルの哲学書を読み齧ったが、翻訳された硬い言葉がなかなか頭に入らなくて閉口した記憶がある。特にサルトルの「弁証法的理性批判」を読んだ時は用語の意味が分らなくて早々にギブアップした。「こういう本がスラスラ読める人はよっぽど頭がいいんだろうな」とコンプレックスさえ感じた。

さて哲学書でなく聖書の翻訳について、画期的な労作が2011年に出た。山浦玄嗣氏の「ガリラヤのイエシュー」だ。この本についてはご存知の方もいると思うので、ここでは1つの言葉だけに触れたい。あの有名な山上の説教の冒頭の言葉、マタイの福音書の「心の貧しい者は幸いです」を山浦さんは以下のように訳した。

「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ」

マタイは文字通り経済的に「貧しい人々」だけではなく、金持ちで豊かな生活としている人でも、心の中に空しさを抱えている人がいる、という意味合いを加えて、貧しさに普遍的意味を持たせているように思われる。つまり物質的だけでなく精神的にも貧しい人がいると。

山浦さんの訳はそのあたりも滲ませているようだ。

今回小冊子「本のひろば」一般財団法人キリスト教文書センター発行の書評を読んでいて山口里子氏の「イエスの譬え話1」に目が留まった。山口氏は、イエスの譬え話に出てくる「主人」「農園主」「父」などを伝統的にキリスト教界が「神」と解釈してきたことに異論を唱えている。このあたりは翻訳というよりも解釈かもしれないが、「主人=神」としない解釈もありそうだ。

翻訳、解釈の違いでその後の展開が大きく変っていく。やはり翻訳は難しい。