考える、考え続ける、毎日考える

馬鹿な考え休むに似たり、という諺がある。確かにそういう面もあるだろう。ただ現実はじっくり考える時間がない、というのが実情なのかもしれない。ある時、ある本を読んでいた。それは一橋大学学長だった阿部謹也氏の中世研究に触れた文だった。詳しくその文を再現することはできないが、確か、それは「中世の何が解ったら中世を理解できたことになるのか」との問いを阿部謹也氏は立てて研究に取り組んだ、と言う内容だったように記憶している。この問いを立てるところに迄、氏が追い込まれたのは膨大な文献を読んでいるうちに、そして読むだけで人生が終ってしまうのではないかという危機感だった。この問いの設定は物事の核心に私達の関心を集中させる。もとより簡単な問いではない。また容易に核心が見つかるものではないかもしれない。私自身、屋上菜園と日本型ビジネスモデルをライフワークにしている。そこで時々立ち止まって考える。「屋上菜園の何が解ったら屋上菜園の本当の意味とか価値が見えてくるのか」「日本型ビジネスモデルの何が解ったら、これこそが日本型ビジネスモデルだと言えるのか」これはトートロジーに似ているようだが、決してそうではない。最近屋上菜園については「これがそうでないか」と思われるものが見えてきた。私は以前から紙にいろいろな図とか絵を書いて考える習慣がある。

これは関連性を見つけるのに役に立つ。しかし、深く考えるということになるとやはり文にするのが効果的のようだ。才気煥発、頭の回転の早さから遠い不器用な私には、図とか絵を描いて、次は文を書いて考えを深める、というのがどうも性にあっているようだ。そして心がけていることはいつも考えている、毎日考える、ということだ。その努力を続けていれば、何か解ることがあるかもしれない。そして最後に。考えるとはどんなことなのかを考える、という問いにもどこかで出遭ったことがある。今の私は考えるとは「感動に出遭うこと」だ、と答えたい。まだ最終結論ではないが・・・。