聞くことと励ますこと
青年の頃読んだ吉野弘の詩にこんな詩があった。それが読んで腑に落ちたこともあって今でもその詩句が甦ってくる。「自分自身に」という題の詩だ。
他人を励ますことはできても
自分を励ますことは難しい
だから―というべきか
しかし―というべきか
自分がまだひらく花だと
思える間はそう思うがいい
若い時は「確かにそうだ、自分を励ますことは難しい」と思っていたが、最近は「他人を励ますことも難しい」と思うようになった。なぜならこちらは励ましているつもりなのだが、それが相手に伝わらず、曲解されることがあったからだ。そしてある人から次のような言葉を聞いた。「本当に相手を励ますとはいろいろ言うことではなくて、寄り添って、相手の話を聞きながら頷くことなのかもしれない」。人は自分で自分の感情、情念を支えきれなくなると親しい人に助けを求める。それは自分だけでは受けとめ切れない感情を誰かに一緒に受けとめてほしいということかもしれない。他者はそこでは一緒に受けとめている存在だ。私達はコミュニケーションの中で、答を求める会話とそうでない会話の2種類を使い分けている。今必要なのは、答を求めない、寄り添って頷きつづける会話なのかもしれない。そしてこの会話ほど相手に対する愛を必要とする会話はないかもしれない。
神の沈黙という問題がある。人間の側にしてみると「これほど祈っても神は何も答えてくれない」ということになるだろう。しかし、もし神が寄り添って、私の話を聞きながら頷いていてくださると思うことができたらどうだろうか。
励ます、励されることの先にあるものは何だろうか。今少なくとも言えることは、先にあるのは答ではなく「共感」ではないか。そして「共感」とは・・・。