自分が感じた問題を考える

 

今朝の日本経済新聞に「哲おじさんと学くん」の対話が連載されている。第5話の最後は哲おじさんの次のような言葉で締めくくられている。「世の中には、自分が直接感じ取った問題を自分で考えていくことができる人が驚くほど少ない」何故人は考えることができないのだろうか。いや自分では考えているつもりでいても、実際は考えるというレベルに迄達していない、ということもありそうだ。さて、それでは考えるということはどういう行為なのだろうか。この対話の中で哲おじさんは生活の苦労と存在の不安があることを学くんに教える。私自身会社を自主廃業し、次の新しい仕事を目指した時、生活の苦労と存在の不安を同時に感じたことがある。存在の不安とは自分は一体何者なのか、さらに言うなら自分は生きている価値のある人間なのか、という問いになって私自身を包み込んだ。一方で生活の不安もあった。この先どのようにして収入を得ていったら良いのか。この2つの問題を抱えながら私のシニア生活は始まった。今の時点で振り返ってみると、それは自分の生きる世界を求めて流れていく<漂流>だったような気がする。この漂流時代、私が心がけたことが二つある。それは日記をつける、自分の一日がどんなであったか、振り返り、考えるということであった。考えるということは意味を見出す行為でもある。私は会社を自主廃業する時に自分に言い聞かせたことがある。人生のどんな時にも、どんなことにも意味がある。自主廃業を最後迄やり遂げる作業がどんなに辛くても、その中でしか学ぶことのできない人生の真実、仕事の本質がある、それが自分のこれからの人生と仕事の財産になり、また同じような問題を抱えている人に出会うキッカケになる、と。考えるということは意味を見出し、その意味を自分が生きている状況、世界の中に位置づけること、と私は考えた。そして考えるということは本に例えれば行間を読むこと、人との会話に例えれば、言われた言葉だけでなく、沈黙を理解すること、更に言うならば<洞察>すること。もう一つ、漂流時代の支えになったのは農作業だった。土に向かい合い、野菜に向かい合う生活は私の心と生活にリアリティを、小さくても意味ある生活を回復させてくれた。考えるという行為は<意味>を見つけ出す行為。その意味は自分で見つけなければそれこそ意味がない。自分で試行錯誤、苦闘して意味を見つける。そこにこそ、人生の意味があるのかもしれない。この歳になって読書が楽しい。なぜ楽しいかと考えてみると、読書は自分の思考を刺激してくれるからである。若い頃は理解して<分かる>というレベルを目指していた。今は著書と一緒に考える、という楽しみがある。人間は死ぬ直前迄、考えることができる。死ぬ直前に人生の真理を悟るかもしれない。考える、考えるとは何か考える、自分が見出した意味を更に考える。ビジネスをしていく場合にも自分で考える力を持った個人、考える習慣を持ったチームが必要ではないだろうか。特にビジネスモデルデザインの場合はそうだ。